わが町の隠れ切利支丹にまつわる話 その十

時代は徳川の世に移り、切支丹にたいする弾圧はますます激しさを増していきます。


この尾張の地でも、三代将軍徳川家光の厳命により、尾張藩は踏み絵、宗門改宗等で厳しい信者の取り締まりに乗りだし、信者五十七名を召しとりました。


我が町でも特に指導的な役割を果たしていた四名、ポール兵右衛門、コスモ道関、レオン庄五郎、シモン久三郎を印伝郷裏、常光一本松塚というところで火炙りの刑に処しました。


さて、皆さんはこのトピックの最初に出てきた、八劔社境内の空圓上人の碑の側面と台座部分に彫られていた文字を覚えておいででしょうか?


左側面には「センテンセ」、裏の台座部分には「クロタセウ」と彫られていましたが、これはポルトガル語かスペイン語の日本語訛で、それぞれ「判決宣告」、「はりつけ、火炙り」を意味しています。


おそらく信者の方が、この地で宣教師的な役割であった四名の事を偲び、人知れず後の世に残すために、ひっそりとわからないように彫ったのでしょう。


今ではこの四名を慰霊するために、市内の常光寺というお寺で水掛け地蔵が供養されています。


その十数年後にも同じく市内で、指導者格の喜多郎とその妻、他十数名の信者が市の南部、大字平という所で斬首の刑に処せられています。


この地域では弾圧による殉教者がその後もあとをたたず、1661年、四代将軍家綱の時代には尾張、美濃合わせて三千名もの切利支丹が弾圧により殉教したと伝えられています(尾張美濃崩れ)。


この殉教者の数からすると、もしも弾圧がなければ如何にこの地が切支丹信仰の聖地となるはずであったかがわかります。


からくも処刑を免れ隠れ切支丹となった彼等は、代々村八分などの差別を受け続け、永らくの間、苦難の信仰の道を歩まねばなりませんでした。


続く


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