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霊媒体質の人々 其の十三 人生で出会った霊能者達

自分は長い人生の中で出会った、本当にいろいろな霊媒体質の人々を見てきました。 一番多かったのはやはり何となく感じるという人で、その多くは意識を集中するとビジョンが浮かんでくるという感じでした。 またこのブログでも既に書いたように明らかに霊が見えたり強く感じるという人、フーチ等の道具を使う人、これはダウジングといわれる振り子のことで、単純な質問を重ねることにより答えを探っていくというやり方です。 フーチの人はご本人は霊能者だと言っていましたが、これ位は自分でも普通に出来る感じで何だか物足りないなと思いました。 そして人や物が出しているエネルギー(おそらくオーラとは違う)が見えるという人、その人はお店によく来ていた地元の工業高校の男子生徒で、殊更その特殊な能力を人に言いたがるような感じではありませんでしたが、何かの時にたまたまそういった話になり、本屋等へ行くとそれぞれの本が出しているエネルギーがみんな違い、良い本は何となく分かると彼は言っていました。 ものにはエネルギーが出ているということはいろんな方が話しており、その世界では常識だと思うのですが(物理的な知識でも説明出来るのではないでしょうか?自分には理系のことは分かりませんが)、自分でも天然石とかは掌をかざすとビリビリとした感覚がよくわかり、結構手のひらで感じることが出来ます。 自分の人生において、いわゆる霊能者といわれる人に相談料を支払って見てもらった経験は確か三回程あります、そのうち二回は知り合いにたまたまついていって成り行きで見てもらったもので、この人達はこれでお金を取るんだというのが正直な感想でした。 後の一回は自分が未だ若輩だった頃のことで、その時期あることにとても悩んでいて人伝に地元で有名な霊能者といわれる人を紹介してもらい、その人の家を尋ねたというものです。 そこではいろいろと言われて結構きつい話もされましたが、まあ正直言ってしまうと、後から冷静になって思ったことは、その後の人生にはあまり関係が無かったという意味で別に相談しなくてもよかったのかなと感じました。 まあこれは結果論ですが。 その霊能者のところには、相当年月が経ってから(おそらく二十年以上)実はもう一度いっております。 何故行ったのかというと、別に何かの相談のために行ったという訳ではなく、そのときの自分であればその先生のことが以前と違って冷静

霊媒体質の人々 其の十二 教祖が陥る闇

自分が生まれた土地の、己が魂の拠り所である産土(うぶすな)神社へは、今も定期的にお参りに行かせて頂いております。 そして今の自分が、今回の人生を通して此処に在るのは、数えきれない程の沢山のご先祖様方が血脈を繋いで来られたお陰であるし、今世の自分がいろいろな経験を出来たのは、生まれてから今日に至るまで係わってきた文字どおりすべての霊的な存在のお陰でもあります。 ご先祖様方に感謝をするということは、取りも直さず自分にとって霊的な血統が脈々と何世代にも受け継がれてきたということに他なりません。 しかしそれはあくまでも霊的な血統の話であって、魂の素養まで受け継いだということでは決してありません。 我々が住むこの世界にはおよそ八十億人の人々が暮らして居るそうですが、ということは八十億の魂が存在するということになります。 しかしその実は魂自体は全てが同じなのであり、日本的な言い方をすればすべての魂は神様の分け御魂であるということになります。 それはたとえヒマラヤの覚者と言われている存在であろうが、何でこんな人が現世に転生したのかと思えるような人であろうが、魂は魂であって魂には優劣、貴賤というものはそもそも無いのです。 しかし別の側面では魂というものはそれぞれが癖、性分、素養、そのステージが皆違って居り、それはたとえ他人や親子、孫の関係であっても決して変わることはありません。 さて、今回の本題に戻ります。 上でお話した通り、たとえ親子であろうとも、魂自体の素養を決して受け継ぐ訳でもなく人格というものは人其々であるので、身内や親戚血縁者に跡目を継がせるということは、そもそも宗教という存在自体の本質的な部分を継承していく為にはそぐわない行為であり、その教団というものを大袈裟でなく堕落させて形骸化させてしまうことに繋がるのです。 京都に創業四百年の老舗の有名な蕎麦屋があり、気の遠くなるような長い年月を懸けてその味を研鑽してきたのでしょう、本当に美味しいと評判で海外にも知れ渡っています。 しかしこの日本という国には、このお店を更に上回る古い老舗と言われるお店や企業がまだ他にも有り、そういった老舗と言われているお店を血統として代々受け継ぐということと、教団というものを魂で繋げて行くことは、 ある側面では全く真逆の意味合いをもっています。 世間の霊能者といわれる人達にも言えることでごく当たり

霊媒体質の人々 其の十一 宗教の本質とは

新興宗教というものには往々にして、教祖やその身内、親族達のオーナークラブ的な要素がどうしても滲み出て来ることがあります。 それは内輪である限られた組織のなかであれば、どうしても個人に権限が集中してしまいがちになるからです。 しかしおよそ宗教、教団というものはそれに帰属する全ての人々の意識の集合体であるので、本来であればその中で霊的に意識の高い魂の人がその総体の霊的指導者であるべきなのです。 自分は、今迄いろいろな宗教団体、その信者さんや指導的立場の人々を見てきましたが、個別に評したりその真贋までも実はぶっちゃけてしまいたい教団もなかにはあるのですが、流石にそれは支障がありますのでここでは敢えて伏せておきます。 これからお話することは、某教団の熱烈な信者さんに誘われて、その教会へ行った時の実体験についての話です。 そこの教団では集会場へ案内されてビデオも見ましたし、教祖という人の書いた本もどういう教団なのかを知るために購入もさせてもらいました。 その教祖は、ある程度霊的な素養はあった様で、病気直しを売りにして多数の信者を集めて大きくなっていったという教団のようでした。 ビデオの中では、開祖である教祖は既に亡くなっており、その息子が二代目、若い二十代位の孫が三代目、その青年夫婦の小さな子供が四代目という様に、其々が様付けで呼ばれていました。 しかし自分には、それがまるで江戸徳川の将軍家のお世継ぎの様に感じられ、見ていて物凄い違和感を覚えましたが、自分をそこへ連れて行った人や自分の周りの大勢の信者さん達はその事について誰一人として疑問に思っている様子もなく、それがかえって自分にはとても不思議な光景に見えました。 しかもその後を継いだ教祖という人は、本当にごく普通の人の良いおじさんといった感じで、特に弁が立つとかカリスマ性があるといったオーラもある訳でもなく、同じ町内にでもいそうなおじさんであると言ってもよいくらいの風体の人でした。 残念ながらこういった話は自分が見知っている他の新興宗教においても間々有り、教祖が存命中に自分の子供を我が子であるが故に次の教祖に据えたり、その内部の様子を感じ取れば、子供同士で跡目を巡っていさかいをしているなど、何だかまるで遺産争いでもしているかの様で、これはとても次元の低い価値観にとらわれた、非常に愚かな行為であるとしか言いようがありません。

霊媒体質の人々 其の十 宗教の意味を問う

(今回せっかく書き上げたブログを一度載せたのですが操作ミスにより全て消去してしまいました。力作だったので消えた瞬間に力が抜けてしまい、立ち直るのに時間がいささか掛かりました(笑)。酒を飲みながら頑張って書き直しています。大変ご迷惑をお掛けしました。) 数年前の統計になりますが日本における宗教法人の数は約十八万ほどあると言われており、そのうち有名無名、規模の大小を合わせると新興宗教の数は相当数あると思われます。 そのうち自分が良く知っている宗教法人は、創価学会は言わずもがな、中山みきの天理教、岡田茂吉の世界救世教、そこから枝分かれした神慈秀明会、五井昌久の白光真光会、高橋信治のGLA、新しいところでは大川隆法の幸福の科学、キリスト教系ではあの悪名高い世界基督教統一神霊教会、ものみの塔聖書冊子教会、末日聖徒イエスキリスト教会等があります。 新興宗教には教祖のお筆先や神憑りにより開祖したものと、教祖自身がその人生に於いて非常な試練を与えられ、それを乗り越えることにより一種の気付きのようなものが生まれ、それが切っ掛けとなり教団を立ち上げる場合があります。 前者は中山みき、大川隆法がそのケースであり、後者は岡田茂吉、五井昌久、高橋信治等がそれに該当すると思われます。 そういえば阿含宗の桐山靖雄も後者ですね、彼は護摩焚で有名になりましたが、数年前に亡くなったのですね。 しかしおよそ新興宗教といわれる組織には様々な問題を抱えている場合が多々あります。 これらは既存のキリスト教や仏教の場合にも重なる部分があり、イエスや仏陀の教祖たる人物が生を受けていた当時、どの様な教えを人々に述べ伝えていたのかはその弟子達である十二使徒や羅漢等は理解していたのでしょう。 その真理、教義が時代が代わり人伝に伝わっていくにつれて徐々に形骸化していってしまう、これは一種の伝言ゲームのような感じで、少しずつその本質が歪められていき、当初の彼らの想いとは結果的に大きく解離したものとなってしまう事が新興宗教の場合にも当てはまるのではないかと思います。 当初の教祖の霊的な素養により多くの信者が集まれば集まるほど、教団は肥大化し信者数も増えることにより、そこには一種の利権構造が生まれるという、形而上学的な精神性と如何にも俗物的な相反する価値観の相克を新興宗教は内包しているのです。 教祖の亡き後、教団が身内や親族に

霊媒体質の人々 其の九 教祖

近代日本の宗教界において多大な影響を及ぼした存在に大本があります。 一般的には大本教と呼ばれていますが、正式名称は大本であり、明治期、京都に住んでいた初老の出口なおという市井の女性に艮の金神(うしとらのこんじん)と名乗る神が憑依したことからこの教団が始まりましたが、なおとその娘婿である出口王仁三郎によって後に正式に教団が発足する事となりました。 なおにはお筆先(「いわゆる自動書記)によって神示が伝えられ、王仁三郎には神憑り(いわゆる霊媒)によって神示が伝えられていました。 王仁三郎には「霊界物語」なる口伝による八十一巻八十三冊にも及ぶ大著があり、人間の霊性について実に多種多様、多角的に登場人物や彼の言葉を通してつぶさに述べられています。 また、なおのお筆先と同じく、艮の金神からの自動書記によるメッセージで「日月神示」を下ろした岡本天明なる人物もまた神道家であったことから、彼等とは同じ系譜であると言えると思います。 天明も幼少期より霊が見えたり霊的な聴覚があったりした様で、彼に、突然本人の意味が分からないままに自動書記が降りてきたというのは、恐らく彼のお役目であったのでしょう。 当初、天明に降りた神示は漢数字の羅列や独特の記号、ほんの少しの仮名文字等々で書かれており、当の天明自身も書いていてさっぱり意味が分からず、当初これは低級霊の仕業なのではないかと非常に困惑していたそうです。 実は高次元からの霊示はこういった数字や様々な記号の羅列などによるメッセージが多く見られ、これは数霊などにもあるように一種の重要な霊界と人間界の伝達手段で、神界からのメッセージにはこのような形に重要な意味が含まれる場合が多いのです。 日月神示といえば十年以上前のことになりますが、ある大手の書店で中矢伸一校訂版の完訳「日月神示」を書棚で見つけた折りには、自分にとっては当時結構な買い物でしたが、非常に良い波動が出ているので思わず衝動買いをしてしまったのを思い出しました。 話は大本に戻りますが、時代の要請に依って教団は社会的に非常に大きな勢力となり、当時の知識人や軍内部にも浸透し、大本は政治的にも影響力を持つまでになっていきます。 しかし当時の政府からは恐らく皇太統的な意味合いだろうと思われるのですが、神話体系やその歴史観における当時の軍国主義的な政府との対立的な構図があり、王仁三郎の政治思想も危険

霊媒体質の人々 其の八 ある有名人

g○さんがテレビに出ていた頃より二十年位後になるのでしょうか、以前にTVでやっていた「オーラの泉」という番組がありましたが、視聴率もよかったのでご覧になっていた方も多いのではないかと思います。 その番組で霊的素養が一躍有名になった美輪明宏という方がおります。 これも以前のブログでご紹介しましたが、女流小説家で「私の遺言」というノンフィクションの著書のなかで、壮絶な霊障にまつわる霊的体験を克明に綴った佐藤愛子という小説家が、北海道に購入した別荘で先祖霊の因縁による様々な霊障に悩んだ末、人伝に紹介されたのが美輪明宏さんでした。 彼は本来歌手なのですが、おそらく当時の著名人の中では美輪さんの霊的素養は知れ渡っていたのでしょう。 ちなみにこの本の中では奇しくも、若い頃のE○さんも霊障の相談者として登場しています。 本の中で佐藤女史が電話で三輪さんに相談に乗ってもらい、電話口で美輪さんが、佐藤さんの家の周りのいろんなビジョンや、何が霊障となっているのかがハッキリと見えて、的確なアドバイスを彼女に送っている場面がしばしば出てきます。 おそらく彼にとって、この頃が一番良く霊視が出来ていたのでしょう。 美輪さんは昭和十年生まれですのでもう八十は超えてみえますが、彼はなにかの機会に、ここ数年そういうものが見えなくなってそういった能力がまったく無くなったということを話しているのを聞いて、あんなに的確に霊視出来た人が? と少し驚きましたが、G○さんと同じようにある時期から霊的な感覚が衰える、若しくは消滅するということはしばしば有るようです。 これとは真逆に、人生のある時期から突然目覚めるという方も居ます。 世間では所謂、霊能者と言われて活動している人、宗教者でそういった素養が備わった人、何らかの形でインスピレーションを受け取り、それで霊的な力を発揮したりメッセージを伝えることで生業にしている先生等々、本当にいろんな方がみえます。 まさに千差万別、玉石混淆といった感じです。 続く

霊媒体質の人々 其の七 過去の霊的体験

自分は所謂霊媒体質ではないし霊視出来る訳でも有りませんが、過去世の経験からなのか霊的な素養は魂の癖性分にしっかりと染み着いているようで、宗教家や霊能者的な人を磁石のように引き付ける特技がある事は既に何度もお話してきました。 自分の人生においては、霊能力というものは一切必要ないと思っているし、もしも神様が突然目の前に現れて、お前に霊能の力を授けると言われたとしてもキッパリとお断り致しますが、そんな自分でも霊的な体験は何度かしています。 昔、自分が青春時代を送っていた頃、G〇〇子という世間でとても有名な霊能者がみえました。 今で言えばE〇さんのような感じでしょうか、当時はTVのマスコミなどに非常に持て囃されていて、同世代の人であれば、ああ、あの人ねという位誰にでも認知されているような有名人でした。 自分は本当に若い頃から霊的な摂理に対する探求心が旺盛で、中学に入った頃から既にGLAの高橋信治先生の本を何冊も小遣いで買って読んでいた様なとても変わった少年でしたが、青年になってからG〇〇子という人がマスコミで頻繁に取り上げられ当時有名になっていたので、一冊買ってみようと思い早速本屋に出向いて彼女の本を購入致しました。 ある日、部屋に置いてあった彼女の本を読み始め、気付いたら夜も遅くなってしまったので、読み掛けのままもう寝ようと思って布団に入った途端、 本当に突然でした、 何かが胸の辺りに馬乗りになって乗っかってきたのです! もうビックリして、しかも胸の上に乗っているのでとても息苦しいし、どれだけもがいた事でしょうか、長い時間が経っていたのか、果してほんの一瞬の出来事だったのかは分かりませんが、フッと乗っかっていたものが離れた瞬間にはびっしょり汗をかいていました。 何十年も経った今でも、乗り掛かられた瞬間には布団がグッと沈んだ感覚を鮮明に覚えています。 よほどぐったりとしていたのか、その後直ぐに寝てしまいましたが、翌朝昨夜の出来事を思い出してみると、原因は確実に読んでいた本にあると確信しました。 今では良く分かりますが、彼女の霊視の記述部分を考えると彼女が霊界のあまり高い世界とは繋がってはおらず、それが故に低い波動が出ていたために低級霊を呼び寄せたのだろうと思います。 彼女は一世を風靡し時の人とはなりましたが、晩年彼女の霊能は明らかに落ちており、世間やマスコミの期待、要請との

霊媒体質の人々 其の六 ある後輩

何時もの如くお店を開けていると、見慣れない女子高生が入ってきました。 自分が卒業した高校は地元の私立高校ですが、女子の制服が非常に特徴的であったので、彼女の着ている制服から自分の高校の後輩であると直ぐに分かりました。 彼女に、あなた〇高校でしょう? 自分はあなたの高校の先輩だよ、ということを伝えると、彼女も初対面のバリアが解けたのか、それからはいろいろと高校の話等で盛り上がりました。 それ以來、彼女は通学路が学校からバスで駅前まで来るルートなので、学校帰りにちょくちょくお店に顔を出してくれるようになりました。 しばらくしてあるとき、彼女がテストの勉強の話をしていた折に、実は私、霊が見えるんですよということを言い出し、正直この子もか! と思いましたが、それとなく聞いて見るとなかなか大変な話でした。 どちらかというと彼女は、そういった話をあまり人にはしない様な感じでしたが、自分がこのように霊的な素養を持っていることにおそらく感応したのでしょうか、それと彼女自身が幼い頃からそのような特殊な能力があることについて、非常に悩んだのだろうという事が彼女を寡黙にさせたのでしょう。 一体いつ頃から霊を感じるようになったのかは聞いたかもしれませんが、今では失念してしまいました。 しかしお店に来たのが中三か高一位だったので、おそらくは幼い頃から既に見えていたのだろうと思います。 これは世間で有名になった霊能者と言われる人達も皆さんが通る試練で、自分だけそのような霊が見えてしまうということは、物凄い葛藤だと思いますし(しかもそれは不浄仏霊の場合が多い)、それが幼い頃からであればなおさらのことです。 「二人のお坊さん」のブログでお話した、霊が見えて悩んでいる母子の娘の方もまだ小学校に上がる前位の年齢でした。 昔から、草木も眠る丑三つ時という言葉がありますが、やはりそういった時間には霊が出やすいようで、彼女の居た学校は一応進学高でしたので真夜中までテスト勉強をしていると、訳の分からない雑霊達が寄ってくるので、気が散って勉強に集中出来なくて本当に困ると真顔でこぼしていました。 おそらくこれは、肉体的な感覚と霊的な感覚のスイッチのオン、オフのコントロールができないと、見たくなくても見えてしまうのだろうと思われます。 しかしこれも一種の慣れのようなもので、要領を掴んでくればコントロール出来るように

霊媒体質の人々 其の五 成仏出来ない霊

自分が住んでいる地域には、中日ドラゴンズという地元に密着した球団があり、親会社は中日新聞社で、実はドラゴンズはプロ野球界では巨人、阪神に次いで三番目に歴史の古い老舗球団なのです。 このチームは、あの落合博光監督が辞めるまでは、セ・リーグでの勝数、優勝回数ともに巨人に次いで二位で、人気はともかく意外と実力のある球団だったのですが、彼が辞めてからは最高でやっと三位が一度、常にBクラスが指定席となっており、今期も満を持して生え抜きの立浪さんが監督に就任したものの、敢えなく最下位に甘んじることとなりました。 まあ自分が思うにはっきり言って球団がけっこうシブチンなところがあり、OBも地元に有力なTV、ラジオ局があるので食いっぱぐれがないせいか、中日出身の生え抜きのOBで活躍した監督やコーチは一部を除いて然程いるとはいえません。 (落合さんも監督に招かれてコーチ陣を決めるときに、そのことについては言及しています) 阪神と同じく、球団としてもそこそこお客が入ってくれればそんなに優勝しなくても良いという雰囲気があるので、それが選手の年俸査定にも表れているような気がます。 ホーム球場は以前はナゴヤドームでしたが、ネーミングライツで2021年にKOWAという製薬会社にドームのネーム使用料を売却した為、今はバンテリンドームという名称に変更されています。 (ネーミングライツ料金は公表されていません、5年で十億から十二億前後だと推測しますが、地元ではあまり評判は良くありません、何せ湿布薬の名前ですから) 今回のお話もナゴヤドーム時代の10年以上前のお話で、前でお話したお店にみえていた霊感があるお客さんから聞いたものです。 彼女の旦那さんは、仕事の関係でドームのチケットを時々会社から貰ってきていたそうで、彼女もご主人に誘われて何度か野球観戦に足をはこんだそうです。 しかし毎度、ドームで観戦するうち回を追う毎にだんだんと気分が悪くなって来て、三回位からもうどうにも耐えられなくなって旦那さんを残して先に帰ってしまっていたそうです。 彼女曰く、シートで観戦していると下から沸き上がってくる何か嫌な感じのエネルギーに気分が悪くなってきて座っていられなくなってくるそうで、これは聞いた瞬間に自分にはその理由が直ぐに理解できました。 実はバンテリンドームのすぐお隣には今でも三菱の工場があり、昔はドームの敷地は

霊媒体質の人々 其の四 身の周りを整える

そしてもう一つ、皆さんに強くお話したいことは、よく肝試し気分で心霊スポットへ行くという人がいますが、あれは絶対にやめたほうがよい行為です。 百歩譲って慰霊の気持ちがあって行くのならまだしも、そのような面白半分な行為は百害あって一利なし、本人にとって何一つ良いことはありません。 そういったことをする本人は確実に運気が下がりますし、何よりもそのような場所は低級霊や不成仏霊達の溜まり場のようになっており、下手したら霊媒体質でなくても憑依される可能性があります。 昨日もある人が、祀られなくなった寂れた神社を探訪して写真を載せているブログをあげているのを偶然見ましたが、そこは廃坑となった洞窟内を昔慰霊のために祀っていたと思われるもので、恐らくは坑内で亡くなった方が少なからず見えるのでしょう、明らかに不浄仏霊が写っていました。 自分には、わざわざ好んでそのような場所へ行くというのは、とても正気の沙汰とは思えません。 自分は同じ市内にある有名なゴミ屋敷でさえ、車で横を通るだけでもいい気がしませんからね、見ているだけでとても嫌な感じがビンビンと伝わってきます。 皆さんにお伝えしたいのは、とにかく部屋が散らかって汚れている方、掃除が不得意であるという方は、たとえ少しずつでも良いので片付けをして、なるべく身の回りを綺麗に保つようにしてみて下さい。 断捨離もとても効果があります、部屋に悪い気が溜まるのは物で溢れかえってごちゃごちゃとしているからです。 勿体ないとか何かの記念の品だからとため込まずに、もう何年も使っていない物はこれからも使う事はほぼ有りませんのでどんどん処分してしまいましょう。 そういったことをすれば、必ずご自身や家族の方に何らかの良い変化が現れてくると思います。 幸いなことに、自分の妻は(自分からすると)過剰と思えるほどにキレイ好きで、少しでも小さなゴミを見付けると直ぐに掃除をしたりしていますが、我が家はそのお陰か決して大袈裟ではなく、とても精妙な神社の様な空気が漂っています。 身の回りを綺麗で清潔に整えるということは、霊的な意味に於いてもとても大切な要素なのです。 少しでも霊感のある方は是非一度家にお越しいただき、チェックしてみて下さい、きっとさもありなんと思われるはずです。 続く 

霊媒体質の人々 其の三 未浄化霊を寄せ付けない

未浄化霊を寄せ付けない秘訣とはいったい何でしょうか? 実はこれは何も難しい事ではなく、健康を保つこととほぼ同じで、普段からよく睡眠を取りとにかく疲れを溜め込まないこと、そして何より大切なのは毎日楽しく笑って、心穏やかに明るく過ごすことです。 これはどういうことかというと、霊的な世界というのは想念の世界でもあるので、怒りや妬み、そねみ、人に対する誹謗などネガティブな想いをごちゃごちゃ溜め込んでいると、未浄化な低級霊と波長が合ってしまうからなのです。 低級霊の低級霊たる所以は、そういった想念に凝り固まっているために、自らを成仏出来なくしているのです。 つまりそういった存在と波長を合わせないためには、簡単に言えば、ストレスを溜めない前向きで楽観的な生活を普段から心掛けていれば良い訳です。 そしてご先祖様や守護霊様に何時も感謝の念を持ち、そして産土神社(魂のご縁のある守り神)に時折お詣りに行き、生かしていただいていることに感謝をすること、それができていれば低級霊が憑依することなど絶対にありませんし、霊主体従の精神性の関わりの意味においては身体を健康に保つことも出来ます。 (守護霊様に迄感謝をされる方はあまりいないのかもしれませんが、自分の場合は直系の御先祖様が何時も見守って下さっていますので、何か良いことが有る度に口癖のように有り難う御座いますと言う様にしています) まさに一石二鳥といった話で、どんな祝詞や経文、修行することなどよりも感謝することこそが、魂にとっては本当に大切なことなのです。 すべての人には、沢山の御先祖である霊人達がついており、いつもあちらの世界から見守ってみえます。 たとえどんな人でも決して孤独ではなく、沢山の霊的存在がその人の背後にはおり、魂の部分ではそれらの方々と繋がっているのです。 ですから、孤独に苛まれる人がもしみえたとしても、あなたの背後には沢山の御先祖様方や魂にご縁のある霊的存在が常にあなたのことを気にかけ、背後から応援してくれています。 誰一人自分のことを気にも掛けていない、自分はひとりぼっちで孤独である等と思い込むのは、実は大きな間違いなのです。 あなたは決して独りなどではありません。 続く

霊媒体質の人々 其の二 未浄化霊の憑依

霊媒体質の人というのは霊的な次元での周波数を持っていて、たまたま成仏出来ない地縛霊や浮遊霊、魑魅魍魎の低級霊などに周波数が合ってしまうと憑依されてしまう場合があります。 自分にも一度だけ経験がありますが、憑依されると急に物凄く肩が重くなりぐったりとした感じで、本当にどうしたんだろうという位とても疲れました。 自分の場合は直感的に、亡くなった友人がこの世に未練があって自分に取り憑いたのが分かったので、知り合いのところへ行って祝詞をあげてもらい、祓って成仏して頂きました。(お盆の時のブログを参照してください) 一般的には未浄化霊に憑依されると、肩が重くなる、身体が冷たくなり寒気がする、不安な感情に襲われる、ぐっすりと眠れなくなるといったあからさまな体調の変化が起こり、それが進むと身体の弱い部分に痛みを感じ出したり、自分でも訳が分からずイライラして突然切れ出したり、さしたる理由もなく暴れたり、果ては重度の精神障害のように心を病んでしまったりすることもあります。 自分の知り合いの霊能者のところに、息子があるときから家庭内で急に暴れだして、手がつけられなくなる程家のなかが滅茶苦茶になり、一家で自殺まで考えたという母親とその息子に会ったことがあります。 その息子さんは二十代前半位だったでしょうか、本当に見るからに優しそうで穏やかな人で、なんでこんな人が? と思ったものでした。 その霊能者に言わせると、彼の場合は明らかに憑依によるものだと話していました。 自分にはある程度、審神者(さにわ)的な意味合いでその霊能者の言っていることを理解できますので、自分にもやはり彼の場合は何かが取り憑いたのではないかと思いました。 お店にみえた彼女の様に、そういったことを避けるためには、嫌な感じがする場所には決して近づかないことで、これはホテルの部屋に泊まる場合や家を建てる、中古の家を買うときもおなじです、少しでも嫌な感じや胸騒ぎがするようであればその感覚を信じて取り止めて下さい。(自分の父親も同じような経験をしています、またの機会にお話します) 宿泊で予約したホテルの部屋であれば、すぐにャンセルしてフロントでチェンジをして貰ってください。 フロントも心得たもので、そういった部屋は彼等にも確実にわかっており、直ぐに応じてくれる筈です。 これはまあ、余程運が悪かった場合で、そんなにいちいち出くわすこ

霊媒体質の人々 其の一 お店のお客様 

以前やっていたお店のお客さんで、NGY市から見えていた常連の方がおりました。 その人は中年の女性の方で、何故わざわざ自分の市までみえていたのかと言えば、此方に行き付けの美容院があり、遠路はるばる電車を乗り継いで通っているということでした。 彼女のお宅も何度かお邪魔していますが、お住まいは市内でも高級住宅街といわれている山の手の一角にあり、周りにはトヨタやその他の有名な地元企業の社長や重役達の邸宅が立ち並ぶ地域で、自分のお店が輸入家具を置いていたことからたまたまフラりと立ち寄られ、それから彼女とのお付き合いが始まりました。 何度かお店に来ていただいているうちに、自分がこのような霊的な摂理を理解しているからなのか、ある時雑談が霊についての話になり、私は実は霊媒体質なのよ、と打ち明けられました。 こういった話は、世間では未だに否定的な反応をする人達が多く、誰にでも気軽に話せるものでもないのですが、おそらく彼女は自分の魂の癖性分を、霊媒体質であるが故の霊的な感覚で見抜いたのでしょう、彼女からはいろんな話を聞くことが出来ました。 その人は車の運転はされないようで、何処へ行くにも電車などの公共交通機関を使って移動をされるということでしたので、必然的に駅を降りてから街中を歩くということが多くなります。 彼女が何時もの如くある通りを歩いていると、時に非常に嫌な感じがすることがあり、そのようなときにはその通りを決して通らず、わざわざ迂回をして遠回りをする場合があるということでした。 自分のお店がある街でもそのような場所があるそうで、それがわかった段階でもうその通りは決して通らないそうですが、これは自分にもその理由はよくわかります。 これは過去にその場所でたくさんの方が亡くなったか、地縛霊のような存在の良くない想念が磁気のようにその土地に張り付いていて、彼女が霊媒体質であるが故にその低い波動を感じ取ってしまうということなのでしょう。 この話は続きます。

喫茶店モーニング 発祥の地

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自分の父親は、昭和三十年代直ぐに駅前通りで喫茶店を始めました。 それと呼応するかのように、この地域は毛織物の一大産地として全国的にも有名になり、数多くの繊維会社や商社、大工場、個人の町工場等がこの濃尾地域一帯に広がっていました。 当時はガチャ万と言われており、織機が一回ガチャリと音をたてればお金が転がり込んでくるというように、生地を織れば織るほど飛ぶように売れていた時代でした。 昭和三十年代より、父親の喫茶店の周りにも毛織物を扱う個人の問屋が駅前通り一帯にたくさん集まりはじめ、やがて問屋街を形成して全国から毛織物の生地を買い付けに来るバイヤー達で非常に賑わうようになりました。 そういった人達との商談の場として、喫茶店が一日に何度も使われるようになり、喫茶店の店主が朝の珈琲に豆とゆで卵を付け始めたのがモーニングサービスの始まりと言われています。 父親が最初にそのサービを始めたのかは今となっては分かりませんが、モーニングサービスの黎明期にお店でもそういったサービスをしていたのは、幼い頃の自分の記憶にも確かに残っています。 記憶ではお店のモーニングサービスで、バターを塗ったトーストとゆで卵、ピーナッツが珈琲のサービスとして付いており、それに加えて布のオシボリまで出していたのを覚えています。 この尾張地区というのは、全国的に見ても喫茶店文化が日々の暮らしに非常に根付いています。 年間の一人当たりの喫茶店の支出金額なる統計があり、全国一なのはお隣のGF市で、自分の住んでいる市やNGY市も支出額はほぼトップクラスだと推定されています。 自分も若い頃はモーニングからランチ、午後の喫茶と一日に二、三回利用したことも結構記憶に残っており、喫茶店へ行くのが娯楽であるかのような感じでした。 市では、商工会が中心となって平成二十一年よりモーニング協議会を設立し、プロジェクト事業を展開して全国にこの地域のモーニング食文化をアピールしています。 しかしコロ○前迄は市内の参加店を募ってモーニンググランプリなるものを開催していましたが、昨今の事情により今はWEB開催などに形式が変更されているようなので、ご興味のある方は各自ご確認してみて下さい。 モーニングサービスの一部を紹介しますと、すべてドリンク代のみで トースト•ゆで卵•サラダ•日替わりデザート•フルーツ(430円)

マスクについて考える 其の九

さて、マスクについて今まで様々な角度から検証して来ましたが、いよいよ今回がエピローグとなりました。 マスクに限らずコロ〇やワクチ〇について、世間で一般的な共通の認識であるとされている物事の大部分は、実は本質を捉えていないのかも知れないということを我々は再度検証しなければなりません。 氷山の一角という言葉がありますが、氷山というものは、目に見える部分は氷山全体の極一部であり(約一割)、その殆どは海面下に隠れています。 これと同じで、皆さんが政府のアナウンスやTV、ラジオ等で得た情報は、公共放送、民放に限らず、氷山のように全体像の極一部の部分しか写し出していないのかもしれません。 今回のこのコロ〇騒動で思うことは、本当に少数の方達を除いて、この日本という国を実質動かしている政府や官僚達は常にある国の意向に添って動いているという真実が、一般の人々には殆ど知られていないし恐らく思いもよらない事だろうということです。 だいたい日本でぼろ儲けした例の製薬会社は、海外では沢山の訴訟問題を抱えているにもかかわらず、この日本においては免責事項を日本国政府と交わしているために、たとえワク〇〇で死亡したとしても一切の責任を問われることはありません。 たとえ政府にその責任を求めたとしてもこれは医療訴訟と同じことで、被害者が被害に至った因果関係を証明するのは、非常に困難を極めることなのです。 しかしこの国の政府は、未だに国民にワク〇〇を打たせようとしていますし、その接種を五歳から十一歳迄の子供達にまで広げようとしています。 それどころか、五歳未満の乳幼児にさえも接種の幅を広げようとしています。 重篤化も殆どしない、死亡することもない若年層に何故ワク〇〇を打たせなければならないのでしょうか? 先日、ある女医さんのTwitterが自分のTwitterに上がっていましたが、十一歳の児童が三回目のワク〇〇接種をしたところ、容態が急変して亡くなったそうです。 親の子に対する心配からか、はたまた政府の言うことを信じて我が子に接種させたのでしようか、それは分かりませんが、本当に痛ましい話です。 ワク〇〇を接種した人が、ワク〇〇拒否派にたいしてまるで陰謀論者で変人であるかのような誹謗をしているコメントを以前に見ましたが、彼等は大きな勘違いをしています。 今回のワク〇〇は正式な臨床試験を経たものではなく、さら

マスクについて考える 其の八

GF 県に、「みんなの笑顔を守る会」というグループがあります。 このグループは最初、二人のお母さんから始まった活動が広まっていったもので、妻が香害に悩んでいてたまたま知り合った人から偶然「守る会」のパンフを貰ったことから、その会の存在を知ることとなりました。 そしてGF県の山県市というところへある事情があって通ううち、市内の木材メーカーが間伐材を利用して製作した「守る会」の木製カードがあることを知り、GF県にある隣の市の市役所迄先日彼女は貰いに行ってきました。 「守る会」はこの木製意思表示カードを、県下四十二市町村に無料で贈呈する活動をしており、欲しいという方は最寄りの自治体で受けとることが出来るようになっています。 このカードについては、GF県の補助金制度を利用して製作されており、不足分は寄付金を募り費用に充てられています。 妻もこのグループの活動理念に賛同し、先日寄付もし会員にもなりました。 この会は、子供達のマスクについての啓蒙のためのパンフレットも作成しており、そのパンフレットのタイトルは「マスク しても しなくても いいんだよ」というもので、マスクを着けたい人も、外したい人も、お互いを理解し会う気持ちが大切であると訴えています。 パンフでは、コロ〇はどれくらい怖いのか? というタイトルでコロ〇前のインフルエンザとの比較をしていますが、実際にはインフルエンザの死者数がコロ〇よりも約三倍も多いので、一連のコロ〇下の過剰な反応に疑問を呈しています。 マスクの効果については、厚生労働省のホームページの内容をを記載し、マスクは、症状がある方が飛沫によって他人に感染させないためには有効ですが、一方で他人からの飛沫を防ぐ予防効果はあまり認められておらず、感染している人からの飛沫を防ぐ効果は期待できません、但し相当込み合っている場合のみでは有効、そしてマスクの着用時で表面を触るのは危険であるためNGと載せています。 マスクの子供への健康被害については、呼吸障害、ウイルスのため込み、表情や感情表現の剥奪、細菌雑菌等の菌の増殖、免疫力の低下、心理的なダメージ等々子供の健康へのさまざまな悪影響について警鐘をならしています。 そして結びに、免疫力をつけることこそが最高の感染症対策であるとして、マスクをするしないを決めるのは私達である、と選択の自由をアピールしています。 前回の高校

マスクについて考える 其の七

以前にやっていたお店は市街地の商店街のなかにあり、そこの振興組合に加盟していた店舗は数十軒はあったでしょうか、そこそこの規模で様々なお店がありました。 その中に宴会と和食を中心にした地元ではままずまず有名な老舗のお店があり、この話はそこの女将から、うちわの話 として聞いたことです。 そのお店の商いは宴会を主にしていたので、近隣の官公庁、民間の会社、私的な小さな集まり、同窓会等様々な集まりや宴会を女将は沢山見てきたそうですが、一番宴会が乱れるのはどんな集まりですかと聞くと、 それは学校の先生と警察官の宴会だと言われました。 言われてみれば、どちらの仕事にも似たような共通点があり、学校の先生は生徒達の模範で、先生という職業は聖職者である的な暗黙の認識が世間一般的にあり、また警察官という職業もやはり法の番人で社会正義の遂行者という、一般の人達にとって模範を示すべく振る舞いをしなければならないといった認識があります。 しかしその職業に就くのには、けっして霊的な素養に優れていないといけないわけでもなく、所詮我々と同じ彼等もただの人なのです。 宴会が乱れるということは、つまりお酒が入ったので、溜まっていた内面のストレスが酒の力を借りて一気に出たということでしょう。 それだけ学校や教師という世界は、特殊である種の閉塞した社会であるということが言えるのかもしれません。 そして、学校と言えば苛めの問題が常に起こりますが、皆さんご存じのように大抵の場合、内部調査をしてもいじめは無かったという結論が頻繁にニュースに上がり、結局県の教育委員会も同じような体質で、本当にイライラさせられた方も多い事でしょう。 学校が何故この様な対応に終始するのかと言えば、これは認めてしまえば校長や教頭が詰め腹を切らされて、その時点で彼等は、ジ・エンド、そして上層部の教育委員会にも火の粉が降り掛かってくるのでなるべくなら認めたくはないのです。 ですから彼等にとっては、出来うることなら無かったことにしたいのでそのような結論になりやすいのでしょう。 そしてもうひとつ、モンスターペアレンツという彼等にとって大きな問題があります。 モンスターペアレンツのなかに、コロ〇に対して非常に恐怖心を抱いている親が居たとします。 彼等の子供が通っている学校で、万が一学内で集団感染が広まった場合、そういった親たちは猛烈なクレームで担

マスクについて考える 其の六 特別編

今日はとても素晴らしい体験をさせて貰いましたので、今回急遽変更して書かせてください。 お昼に江南市という所にある、ダイニング英夏+シスターズカフェ168 というお店のランチに行ってきました。 このお店はもう、何から何までびっくりするような素晴らしいお店で、是非とも皆さんに知っていただきたく紹介させて貰います。 ランチタイムはすべてオーガニック料理で、メニューも豊富、自分と妻が頼んだものはどちらもとても美味しく、ものすごくコストが掛かっているにも関わらず(使っている材料で分かります)価格も良心的、ここまでこだわった料理を出すお店はなかなかお目にかかれません。 まず野菜は自家農園で無農薬栽培、そしてオーナーの方が食品添加物の弊害をよく認識されており、料理に使う調味料類や発酵食品、惣菜に至るまで何もかも手作りというこだわりようで、食材も高価なオーガニック食材店で仕入れているために採算は果たして大丈夫なのだろうかと心配になってしまいます。 そのこだわりようは、半分趣味でやっているのではないかとさえ思います。 しかもお店をやりながら、保護猫の活動をしたり、除草剤や農薬とJAの利権の闇のつながり、食品添加物の人体への悪影響や洗剤の香害の問題だけでなく、その他世間の本当に大切な視点や矛盾点を鋭く見つめる目をお持ちで、お話を聞いていると本当にとても霊性の高い人なのだと感じました。 そして自分達が食事をしている最中に、たまたま大阪からお友達の方がお店にみえ、その方から素晴らしい話をお聞きしました。 大阪では市井の普通の人々が結構マスクを取り始めており、小学生もなんと! もうマスクをつけなくても良いということになっているそうです。 そして、やはり自分と同じく、マスクをつけたい人は着ける、着けたくない人はもう外しているということでした。 彼女は電車でNGY市に来て、あまりにも皆がマスクを着けているのでこちらはパンデミックでも起きているのかと思ったそうです(笑)。 大阪というのはもともと商人の町であり、江戸の世から自主性に富んだ雰囲気がありましたから、こちらの周りを気にする様な質とはやはりどこか違うのだと痛感しました。 ですから我々もマスクを着けたくない人は、勇気を出して意思表示をし、そしてもう外しても良いんだという範を、周りの人々に示してやりましょう。 続く

マスクについて考える 其の五

ついに全国の高校生たちが立ち上がりました! 昨日の夜、あるYouTubeのチャンネルを妻が見ていて、自分も少し気になり後から見てみました。 その動画は、参政党の先の参院選挙、福岡比例区に立候補していた野中しんすけ という介護師の方が、ご自身のチャンネルでマスク着用について動画をアップしているものでした。 彼の動画のなかでは、特定のある高校とかではなく、全国の同じ志をもった各地の高校生達がネットを通じて集まり、「マスクを自由にする会」というものを立ち上げ、署名運動を展開しているという話でした。 その集められた署名の提出先はどこかというと、岸田総理大臣、そして加藤厚生労働大臣だそうです。 何故提出先が彼らなのかといえば、もうマスクを着用することを自由化する、と彼等の口から公に宣言してほしいということが署名の動機ということでした。 その内容は、マスクの着用をやめることを認めて欲しいということではなく、マスクを着用したい人は着ける、着けたくない人ははずすという個人の意志を尊重してほしいという、至極真っ当な話でした。 自分がこのトピックで散々訴えてきた趣旨と、彼等高校生が政府に対してついに声を上げた主張が、奇しくも全く同じであったということです。 多くの幼稚園や保育園、小、中、高校では本当にごく一部の学校や、世間の思惑に流されない志のある先生を除いて、未だにマスクの強制や生徒のマスク警察、暗黙の着用に対する同調圧力がはびこっています。 何故学校というところでは、こういった傾向が生まれる要因が根強く残っているのでしょうか? これは学校という組織やその構成員たる教員の体質、そしてそこへ我が子を通わせる親達との複雑な関係性が絡んでいます。 続きます

マスクについて考える 其の四

最近はコロ〇関連についてのいろいろなニュースを耳にします。 数日前にネットで見たのですが、政府のコロナに対する政策で、国民が猛烈な反対デモを起こしていたあのカナダ政府が、コロナに対する規制を取り止め緩和する方向に舵を切ったそうです。 カナダ政府はこれ迄、入国に際してのコロナ関連の様々な厳しい規制がありましたが、2022年10月1日以降、陸路、空路、クルーズ船での海路からの入国など、新型コロナウィルスに関するすべての入国規制が撤廃されました。 これに伴い、渡航計画の提出や接種証明の提示、列車内や飛行機内でのマスクの着用が一切不要となりました。 日本でもやっと岸田政権が、屋外においてはマスクの着用は原則不要であると明言しました。 しかし自分はまだ政府に対して非常に不満があります。 まず、今頃になってこのようなことを言い出すのは、自分に言わせれば遅きに失した感があり、周りの状況を見て付和雷同的に決定したような印象を受けます。 そして原則不要という言い方は、含みをもたせた曖昧な表現で、いかにも優柔不断な岸田さんらしいというか、人によっては解釈が分かれて混乱をきたす恐れがあります。 しかも外でという、邪魔くさい制約がついています。 何度も話しているように、マスクの着脱の可否は各個人の裁量に任せるべき事項であり、屋内、屋外にかかわらず、各々がその場の状況にあわせて罹患しないように判断すれば良いことだと思うのです。 たとえば人口密度の圧倒的な差からいって、東京と地方ではお店の込み具合も全く違うでしょうし、自分から見たら、東京都内の飲食店内のお客さんの密な様子は避けたいと思うでしょうけれども、それぞれすむ場所も違うし、それもその人の自主的な裁量でしょう。 大衆飲み屋などでガヤガヤして非常に混んで居れば、嫌だと思う人は入らなければ良いし、混んでいる時間をずらすとか、空いている平日に行くとかはみなそれぞれその人が判断すれば良いことではないですか? 自分もさすがにちょっとまずいかなと思ったときには、ポケットにしのばせたマスクを自主的につける場合もありますし、時と場合によって臨機応変に対応していますが、買い物などでは未だにマスクを着けろと言われる場合があり、いくらなんでもさすがにもう良いだろうと本当に閉口します。 もうこれからは、外でも屋内でもマスクを強制された場合には、持っていないで押し

マスクについて考える 其の三

昨日も、たまたま車を運転していてNHKのラジオのニュースを耳にしました。 相変わらず何処其処のコロ〇の感染者数は〇千人で重症者数は○人とやっていました。 今ではネットで世界中から何でも情報が取れるこの時代に、あんな数字のみを、余程の情弱でもない限り、まともに受け止めている人は居ないのではないかと個人的には思うのです。 そういった数字を聞いても、はっきり言って自分としては、だからそれがどうしたの? という程度の事です。 しかし、TVしか情報源がないお年寄りの方達にとっては、まだコロ〇は怖い、マスクもしないといけない、ワク〇〇もまた打たないといけないという気持ちになるのかもしれません。 実際に自分の周りでは、お話を聞いているとそういったお年寄りの方達が結構な割合でいるように感じます。 しかしああやって毎日数字を出してくるということ自体、何らかの意図が働いているのではないかと自分には思えてなりません。 厚生労働省のホームページを見ると、今年の秋から来年の春まで、ワク〇〇の三回目、四回目の接種を奨励しているようです。 思うにマスコミという媒体の使命は、公明で中立的、なおかつ事実であって社会正義に基づいたリソースを公的機関として一般民衆に伝えていくことが使命のはずです。 そうであるならば、もっと多角的な視点で専門家達の意見を一般の方々に広報して、彼等の選択肢を広げなければならないと思うのです。 しかしこれまでの政府の対応との対比を見ていると、何かの利権の代弁者、もっとはっきり言えば代理人のような振る舞いをしているような気がしてなりません。(勿論すべてのマスコミがそうだとは言いません、少数のマスコミはその範疇ではありません。) 何故自民党政府は、もうそろそろ以前の普通の生活に戻りましょうとは言わないのですか? 何か特別な事情でもあるのではないかと勘ぐってしまいます。 ワク〇〇が余っているので、破棄した場合の批判を避けるために、もしくは某国の意向に添ってもっと打って貰いたいのでしょうか? コロ〇前のインフルエンザのワク〇〇を、以前誰かが強制したでしょうか? 風邪やインフルにかかれば、人と接するときはちゃんとマスクを着ける、別に病気でもなければ普通にマスクを着けることなく生活を送る、社会活動もする、それを何十年もの間やってきたではないですか? はたしてうつる人はうつる、うつらない人

マスクについて考える 其の二

前回に書きましたが、他府県からやって来たら、その他府県ナンバーの人たちはコロ〇にかかっているとでもいうのでしょうか? その叱責するような態度を取る人達に聞いてみたいのですが、医学的な見地からそれははたして有意的な数字の根拠でもあるのですか? マスク警察やマスクを強制しようとする人は、何故マスクを着けていない人を危険だと判断出来るのでしょう? 常識的に考えれば、もしも検査を受けて陽性判定されれば、一週間は自宅待機してくださいと政府が広報しているし、企業もそれを遵守しているのでしょう? だとすれば、外出している人達のなかでの罹患率の可能性はマスクの着脱の有無にかかわらずほぼ同じであるはずです。 逆説的に言えば、いったい誰が、マスクを着けている人達の中にこそ、潜在的な罹患者が実はいるということを知りうるのでしょうか? その可能性だって絶対に捨てきれませんよ? たとえマスクを着けていても、その人が着けているマスクの種類とそのときの状況によっては、マスクを着けていさえすれば罹患させることはないとは絶対に断言することは出来ません。 マスクは、水戸の御老公の印籠でも、キリスト教の免罪符でも決してないのです。 皆さん、子供の頃を思い出して下さい。 高い熱が出れば家で安静にして休んでいたし、鼻水が出たり軽度の微熱であれば、普通にマスクを着けて学校へ行っていたではないですか? 何故病気でもない人が、くそ暑い中マスクを着けたり、外で息苦しいのにマスクを着けなければいけないのでしょうか? NY市内で(日本のですよ)たまに見掛けますが、ジョギングをしながらマスクを着けている人が居ますけれども、あれはどうみたって絶対に体に悪いですよ? 身体に負荷を懸けて酸化する行為をしながら、口を覆っているのですよ? まあ、見た目的にゼイゼイいいながら走っていると、それを見て嫌がる人が居るかもしれないのでマスクを着けているのかもしれませんが、もしそうであったとしたら、それはあまりにも過剰な行為だと思いませんか? これは、マスクを着けていれば許されるという暗黙の風潮が日本の社会にあり、かたや、恐怖心からマスクを着けている人達に対して、本当は嫌だけれどもその人達に気をつかって、不本意ながら外でマスクを着けているという人が相当な数いるというのが、日本の異常なまでのマスク着用率の内実なのだろうと思います。 自分は日本