霊媒体質の人々 其の十 宗教の意味を問う

(今回せっかく書き上げたブログを一度載せたのですが操作ミスにより全て消去してしまいました。力作だったので消えた瞬間に力が抜けてしまい、立ち直るのに時間がいささか掛かりました(笑)。酒を飲みながら頑張って書き直しています。大変ご迷惑をお掛けしました。)


数年前の統計になりますが日本における宗教法人の数は約十八万ほどあると言われており、そのうち有名無名、規模の大小を合わせると新興宗教の数は相当数あると思われます。


そのうち自分が良く知っている宗教法人は、創価学会は言わずもがな、中山みきの天理教、岡田茂吉の世界救世教、そこから枝分かれした神慈秀明会、五井昌久の白光真光会、高橋信治のGLA、新しいところでは大川隆法の幸福の科学、キリスト教系ではあの悪名高い世界基督教統一神霊教会、ものみの塔聖書冊子教会、末日聖徒イエスキリスト教会等があります。


新興宗教には教祖のお筆先や神憑りにより開祖したものと、教祖自身がその人生に於いて非常な試練を与えられ、それを乗り越えることにより一種の気付きのようなものが生まれ、それが切っ掛けとなり教団を立ち上げる場合があります。


前者は中山みき、大川隆法がそのケースであり、後者は岡田茂吉、五井昌久、高橋信治等がそれに該当すると思われます。
そういえば阿含宗の桐山靖雄も後者ですね、彼は護摩焚で有名になりましたが、数年前に亡くなったのですね。


しかしおよそ新興宗教といわれる組織には様々な問題を抱えている場合が多々あります。


これらは既存のキリスト教や仏教の場合にも重なる部分があり、イエスや仏陀の教祖たる人物が生を受けていた当時、どの様な教えを人々に述べ伝えていたのかはその弟子達である十二使徒や羅漢等は理解していたのでしょう。


その真理、教義が時代が代わり人伝に伝わっていくにつれて徐々に形骸化していってしまう、これは一種の伝言ゲームのような感じで、少しずつその本質が歪められていき、当初の彼らの想いとは結果的に大きく解離したものとなってしまう事が新興宗教の場合にも当てはまるのではないかと思います。


当初の教祖の霊的な素養により多くの信者が集まれば集まるほど、教団は肥大化し信者数も増えることにより、そこには一種の利権構造が生まれるという、形而上学的な精神性と如何にも俗物的な相反する価値観の相克を新興宗教は内包しているのです。


教祖の亡き後、教団が身内や親族によって跡目争いが起こるということは、とりも直さず宗教という組織がまるで錬金術の手段であるかのような認識である査証であり、相続による申告漏れや信者への献金の強制、強引な信者の勧誘、信者が献金した浄財の教団創始者や親族による私物化等、結構な割合でその様な問題が起こっています。


しかしこれは教団を受け継ぐものが、人であるが故の必然的な性であるとも言えます。


およそ本来であれば宗教というものは、その霊的な摂理、真理こそが受け継がれるべきである筈なのに、その教団という器、信者の数を継承したが為に、教団が主で神の教えが従属的な位置に貶められてしまっている感があります。


これはまさに本末転倒ですが、こういったことは本当に良くある話で、霊能者と言われている人や宗教組織の教祖たる人物も、その権能故に常にそういった誘惑から己の魂の霊性が厳しく試されているのです。






続く





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