投稿

9月, 2022の投稿を表示しています

マスクについて考える 其の一

最近ある事情があって、GF県のYG市というところに何度もお邪魔しています。 道を走っていると数百メートル程度の然程高くはない山が両側に連なっており、空気もとても綺麗でいつ行ってももリフレッシュした気分になれます。 山の中を走っていると、山影の部分とマイナスイオンが出ているせいか、空気も清浄でやや涼しく感じられますが、ただ、現地へ行って最近とても気になり出したことがひとつあります。 道の駅などの、地場の野菜を販売しているところへも頻繁に顔を出すのですが、お客さんは地元や近隣の方なのかわかりません、しかしものの見事にほぼ全員といって良いくらいの人がマスクを着用しているのです。 しかもお年寄りだけではなく、老若男女、殆どすべての人がです。 自分が今すんでいる町は、人口も三十八万人ほどでこの地域では県下三番目の規模を誇る中堅都市なのですが、最近はやっとちらほらノーマスクの人も見受けられるようになりました。 しかしYG市へ来ると、自分達夫婦以外にマスクを着けていない人を見ることもほぼありません。 五日ほど前にも道の駅へ寄って、野菜をお店で何種類も物色し、レジへ持っていったところ、レジにいたおばちゃんがまじまじと自分の顔を見て、マスクを着けて下さいと唐突に言われました。 いや、マスクは持っていない、と伝えたところ、彼女はおもむろにバックヤードに引っ込み、出てきたと思ったら目の前に不繊布マスクを差出しました。 自分は確かに言われた通り、(顎に)マスクを着用し、その後も店の中をうろつきましたがそれっきり彼女は何故か何も言っては来ませんでした。 ご存じの方もおありだと思いますが、日本以外の国にに目を向けると、一部のロックダウンをしている国を除いて、先進国においてはノーマスクでの外出がもはや日常となっており、逆にマスクを着けていると何でマスクつけているの? と奇異な眼で見られたりすることもあります。(海外のYouTubeを見てください、真実です。) 先日、コロ〇に関する知り合いの話で本当に驚いたのは、他府県からAT県に嫁いできて里帰りしようとしても、他府県ナンバーであると知れたら地元の(一部の)人に厳しい目を向けられるということで、里帰りができていないということをこぼしている人がいて、本当に、 日本人よ!!   一体どうしちゃったのかと思わずにはいられませんでした。 (特にお年寄りの方

コルカタの聖 テレジア マザー・テレサ その十二

イメージ
その年の秋も、だんだんと紅葉が平野部まで色づき始めた頃でした。 突然自分の携帯に、神の愛の宣教者会のシスターから着信がありました。 すぐに教会に伺い、作業をするための部屋へ案内されると、そこにはいろんな種類の沢山の段ボール箱が積まれていました。 それらの箱は、十一月に名古屋の布池教会で行われる、マザー・テレサの列聖を祝うミサに来られた方達にお渡しするスーベニアということでした。 他にも信徒さんなのか、数名の方がみえましたが、何点ものお菓子やマザーにかかわる記念の雑貨等を、一点一点間違えないように袋の中へ過不足なく詰める作業をしていきました。 このカトリック布池教会は、名古屋教区である中部五県の司教座聖堂として中心的役割を果たしており、その規模も教区随一で礼拝堂も非常に広く、用意した記念品の数ははっきりとした記憶はありませんが、数百単位で相当な数用意していたと思います。 2016年11月の3日、布池教会はマザー・テレサの列聖を祝う方達で、決して大袈裟でなく立錐の余地もない程沢山の方がおいでになり、立ってみえる方も結構いらっしゃいました。 晴れやかでかつ荘厳なミサは手順を追って粛々と進められ、名古屋教区の松浦悟郎司教もお祝いのスピーチをされましたが、最後に司教からは祝福もして頂きました。 ミサの締めのスピーチでは、あのあま教会のシスター長が登壇され、日本語と英語あわせて十分程は話されたでしょうか、本当に心のこもった素晴らしいスピーチでした。 ミサも終わった翌年、自分はあま市を離れることとなり、それ以来五年の月日が経ちましたが、あのシスターは果たしてお元気でいらっしゃるしょうか。 神の愛の宣教者会は世界の百五十ヵ国あまりにあり、すでに別の教会に移動をされてしまって日本にはもう居ないのかもしれませんが、自分はまだ彼女があまの地に居るような気がしてなりません。 もしも立ち寄る機会がありましたら、またブログに載させていただこうと思います。 終わり

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その十一

イメージ
 聖ペトロ      聖パウロ    (パンフレットより転載)   祭壇を挟んで左右の壁には、大聖堂の守護聖人である聖ペトロ、聖パウロの彫像が祭壇を見つめています。  ミサは毎週土曜日、日曜日と第一金曜日に行われています。 ミサは、キリスト教徒にとって一番大事な祈りで、「最後の晩餐」に由来しています。 それはイエス・キリストが最後の晩餐の席で、パンと葡萄酒を自分の体と血として弟子たちに与えたことを記念して行われるものです。 その後、イエスは十字架にかけられて死に、三日後に蘇ったことで、そのイエスの復活を祝い感謝するためにキリスト教徒は2000年もの間、ミサ(感謝の祭儀)を行ってきました。 このトピックの前の方で、自分はあま市という所に以前住んでいて、マザーの神の愛の宣教者会と偶然ご縁があったと書きました。 自分があま市を離れる前の最後のご奉公、神の愛の宣教者会でのボランティアが、実はマザー・テレサの布池教会での列聖を祝うミサに参列する方へのお土産の品の袋詰めでした。 クリスチャンでもない自分でしたが(過去世で切利支丹であった所以があるのか)、マザーとは聖母マリアや主イエスに対する強い想いという繋がりがあったのかもしれません。 続く

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その十

イメージ
 布池教会正面入口より、向かって右側ある聖母マリア像 残念ながら礼拝堂は撮影禁止のため、写真をとって載せることは叶わなかったのですが、祭壇正面にはキリスト磔刑図のステンドグラスが、背後のオルガンのある楽廊の上部には、音楽の守護聖人セシリアのステンド・グラスが美しく輝いています。  聖セシリア(パンフレットより転載) キリスト磔刑図(パンフレットより転載) マザー・テレサが福者に列せられた要因となったのは、2002年10月に、マザー・テレサに祈りを捧げたインド人女性の腹部の大きな腫瘍が、翌日には跡形もなく消えた事が奇跡と認められたことから、当時の法王であるヨハネパウロ二世によって「聖人」の前段階である「福者」に列せられたのです。 そして、2016年3月には、危篤状態にあったブラジル人男性の妻がマザー・テレサに祈りをささげたところ、夫がすぐに回復したことに対して、二度目の「奇跡」であると認定されたことで、法王フランシスコがマザーを「聖人」に列すると発表しました。                       大聖堂正門 正門横には通用口があり、日中はどなたでも礼拝堂に入り祈りを捧げることができます。 たとえクリスチャンでなくても構いません。 自分も洗礼などは受けていませんが、クリスマスの折など、何度も布池教会にはお邪魔させていただいております。 本当に素晴らしい、ゴシック様式の美しい教会ですので、お近くへ来られた方はご縁があればどうぞお立ち寄りになって下さい。 イエス様と聖母マリア様の像の前に立ち、静寂の中でお二人を見つめていると、きっと心も安らかになると思います。 是非とも愛の権化であるお二人の、大いなる愛を感じとってみて下さい。 続く

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その九

イメージ
  カトリック布池教会  聖ペトロ•聖パウロ司教座大聖堂 2016年9月4日、バチカンに於いてマザー・テレサの列聖式が取り行われました。 それに遅れることちょうど二ヶ月、ここ布池教会においてもマザー・テレサの列聖記念ミサが盛大に行われました。 1997年、マザーの死後、ヨハネ・パウロ二世によりすみやかに列聖のための調査が始められました。 彼女は2003年に福者に認定され、2016年9月4日、ローマ教皇フランシスコがマザー・テレサを列聖し、「聖人である」と世界にむかって宣言しました。 通常であれば福者に認定をされるまでには、本人の死後から少なくとも数十年の審査を要するとされているのですが、たったの6年で彼女は列福され、さらに彼女の死後、19年で列聖されたのはまさに異例の早さでした。 聖人認定を受けるためには、通常殉教者であること、もしくは実証可能な奇蹟を2つ以上起こしていることがその要件とされています。 聖女としての彼女の功績は、すでに世界中に知れ渡っていたことと、異例とも言えるローマ教皇の後押しがあった為に異例の早さでの認定となったようです。 ちなみに豊臣秀吉による切利支丹弾圧により、1597年2月5日、長崎県西坂の丘で磔の刑により殉教した二十六聖人も、1862年に当時の教皇により列聖されています。   続く  

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その八

「わたしは渇く」というのは、取りも直さず精神的、肉体的に最も貧しい人々、イエスの乾きの身代わりとなって愛の乾きの体現をしている人々を、イエスの苦しみとして感じ取り、癒やすということです。 そういった意味では、人々を癒やすということとイエスの苦しみ、渇きを癒やすという事は同じことなのです。 マザー・テレサは、ダージリンへの列車の中でそのことに気付かされたのです。 それには貧しい人々と気持ちを同じくするために、彼等と同じ様な清貧な生活をし、貧しい人々の中でも最も貧しい人々の中へ入り、無償の愛を以って彼等に奉仕することを、彼女のその後の人生の使命として貫くこととなったのです。 列車の中での彼女の体験は、一般に言われるようにイエス・キリストからの啓示があったとか、声が聞こえたとか言うようなインスピレーション的なものではなく、もっとリアルで現実的なものでした。 ヨゼフ•ラングフォード神父によれば、マザーは列車の中で、イエスの渇きと出会ったという「イエスの渇きの体験」をしたことこそが、九月十日の出来事のすべてだと語っています。 しかし、マザーがその体験について困惑し、語りたがらなかったのは、語る言葉もなく、言葉によって説明出来無かったということであり、誤解なく伝える事ができなかったということです。 これはいったい何を意味しているのでしょうか。 自分が常々このブログでお話している様な、霊的な摂理がそもそも彼等キリスト教徒の教義にはなく、それ故にマザーは困惑し、神父達もそれについて伝える術がないのでそのような言い回しになったのではないかと思われます。 そういえば自分が以前にお店を経営していた頃、某キリスト教系の熱心な信者さんが、十五年以上にわたってその教会が発行していた小冊子を定期的にお店に持ってみえていましたが、自分がある時その人に霊界の仕組みについて話をしたところ、彼女はそれはサタンの仕業で、幻覚を見せられていると言うような事を話していたのを思い出しました。 自分はイエス・キリストが磔になったあと、復活して十二使徒の前に現れたことや、ファティマの奇跡と言われる、聖母マリアが三人の羊飼いの牧童達の前に何度も現れたことも、自分が常にお話している通り肉体を脱ぎ捨てた状態となってリアルに(霊的な感覚として)現れたのだと思います。 マザーや、そのような奇跡と言われる場面に立ち会うことがで

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その七

マザー・テレサはもともと、カトリック教会のロレット修道会の修道女として過ごし、コルカタの地に於いてカトリック系の中学、高等学校の教師や後に校長を努めていました。 このトピックの以前の章でも少しお話した通り、1946年8月、イスラム教徒の決起集会がコルカタの公園で行われ、それが元となって暴徒化したイスラム教徒とヒンズー教徒の衝突が段々と激しくなっていき、いつしか街は多数の死者が出るような内乱状態までになってしまいました。 そして彼女は、コルカタのカソリック管区長の命によりその地をやむなく離れることになって、ダージリンへと向かう列車に乗ることとなったのです。 ここで彼女が、最も貧しい人々のために活動を始める切っ掛けとなった、1946年、9月10日のダージリンヘ向かう列車の中で起こった、彼女の霊的な信念の根幹をなす「わたしは、渇く」についての体験をお話したいと思います。 このことは、一般的には電車の中で彼女がイエス・キリストの啓示を受けたとされています。 彼女は言います、私はその列車の中で、すべてを捨てて、貧しい中でも最も貧しい人々のうちにおられるキリストに仕えるために、キリストのあとについてスラム街に出るようにという呼びかけを聞いたのです。(これについては後述します) (後に)私にはそれが神の御旨であることがわかりました。 ですからキリストについていくほかなかったのです、と。 マタイ書25:40には「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」とあります。 マザーの神の愛の宣教者会では、修道院の聖堂の十字架の隣に必ず、「わたしは渇く」という言葉が掲げられています。 そして会の使命を次のように記しています。 私達の目的は、人々の愛を求める十字架上のイエス・キリストの無限の渇きを、福音的勧告に基づく清貧、貞潔、従順の請願と、貧しい中でも最も貧しい人々への真心を込めた無償の奉仕によって癒すことです。 彼女は、「神の愛の宣教者」の司祭部門の初代総長であるヨゼフ•ラングフォード神父に次のように話しています。 いよいよこの話は佳境に入ります。 続く

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その六

理由の三つめは、中絶をするということは結果として母体を傷つけるということになり、更にいろいろな後遺症や病気のリスクもでてきます。 海外では薬で中絶をする方法もありますが、大量に出血する場合もあり、やはり薬が母体に悪い影響を及ぼすということにおいては同じことです。 さらに妊娠12週を過ぎた後に中絶手術をおこなった場合は、役所に死産届けを提出し、胎児の埋葬許可証を貰う必要があります。 自分が何度もお話ししている通り、人間の本質は魂であって身体はあくまでも大切な借り物なのです。 少し話はそれますが、その借り物を傷つける究極の行為は自殺で、たとえどんなに辛く苦しくても、自殺すればその辛さから逃れられると安易に思うのは本当に浅はかな考えです。 自殺すれば今の苦しみの何倍もの辛さが続きまし、因果律の法則が確実に魂にかかってきますので、どんなことがあろうとも、絶対に自殺だけはしてはなりません。 それからもうひとつ自分が言いたいことは、整形についてです。 女性が美しくありたいと思うのは、ある意味種の保存のための本能でもあり、ある程度は理解しますが、社会的にその美醜で差別する男性中心の側の価値観というものは、女性本来の生き方を歪めるいかにも低次元な行為であるということを自覚しなければなりません。 よく海外のセレブで金にまかせて整形をしまくり、お化けのような顔にになった人をネットで見ることがありますが、あれはその女性の顔が醜いのではなく、本当に醜いのは実はその人の魂であって、その行為が顔に現れたということなのです。 全ての人は、お金持ちでもたとえ貧乏な人でも皆平等に年を取り、年々年を重ねる毎にシワは増え、シミも出来、白髪も目立ってきます。 しかし自分を含めこのブログを見てみえる特に年配の方は、思い出して下さい。 たとえその身体は段々と衰えていこうとも、あなたは、子供の頃や学生時代、社会人や主婦になってから、中年期、初老といわれる今においても、あなたの魂自身は冷静に考えれば全く変わっていないではないですか。 その肉体が衰えるのは自然の摂理であり、その魂が変わらないのは霊的な摂理です。 胎児を殺すということは、その魂が人生という名の、素晴らしい経験を体現することが出来たであろう可能性を潰してしまったという ことになるのです。 続く

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その五

人工妊娠中絶率が多い国を見てみますと、どちらかと言えば、いかにも物質文明至上主義的なヨーロッパの国々が上位にずらりと並んでいます。 その中にあって、元祖唯物論の社会主義国家であったロシアと、あの激烈な受験競争社会と女性の美醜について非常に拘る整形大国のお隣の国が、やはりというか必然的にそのなかに混じっています。 日本においてはどうかというと、マザーが来日した頃と比べると、現在では年間の中絶件数は140,000程度で、数的には幸いなことに減少していますが、率的には世界からみて然程多くもなく、かといって少なくも無いといったところでしょうか。 神の愛の実践者たるマザー・テレサからすれば、中絶を選択することはあり得ないというのは至極当然であると思います。 自分もやはり、どちらかと言えばマザーの想いと同じ考えです。 その理由については三つあります。 神道では人の魂は神の分け御霊であり、前回のマザーの言葉の中にもあった通り、カトリックでは神が人間を創られたとされています。 どちらも摂理的には同じで、霊的にいうと話は長くなりますが、ある時期に魂がストンと入るのです。 ですから前回マザーが強い口調で話した堕胎についてのことは、決して大袈裟な話ではないのです。 二番目には、本当にやむを得ない事情で中絶せざるを得ない場合や(これさえマザーは否定されるかもしれませんが)、中絶をしないと母体が危ないと思われる場合を除き、自由な権利だと言って安易に中絶をすることは、その女性にカルマの因果を残す可能性があるという事です。 本当に大切なことは、どういった想いで、何故中絶をしたのかという事です。 これを無くすためには、まずは青少年に対して徹底した性教育を施し、無知による不用意な妊娠を避けることです。 そして中絶をするという行為自体の芽を摘むために、子供が本当に要らないのであれば男女共にちゃんとした避妊をすべきです。 続く

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その四

日本における人工妊娠中絶の届け出件数は、1981年の時点で、約600,000件でした。 果たしてこの数字を多いとみるのか、少ないとみるのかは人それぞれですが、マザー・テレサは来日した折に、自分の授かった子供を中絶して(殺して)しまう女性達が多くいることをたいへん憂慮して、未婚の母と見捨てられた子供たちの為の「子供の家」を1981年、東京都内江東区に設立しています。 アメリカに於いては、人工妊娠中絶賛成派と反対派が数十年前からお互いの主張を繰り返して激しく対立しており、賛成派は主に民主党支持者、反対派は多くが共和党支持者とはっきりと別れています。 アメリカという国は、それぞれの州が独立した国のように州法を持っていて、州別で見るとニューヨークを中心とした東側の州とカリフォルニアを中心とした西海岸の州を除いて、どちらかと言えば中絶反対派の州が多数派を占めており、都市部で民主党のリベラル派と、地方(田舎)の共和党保守派にほぼ別れています。 これは、言い換えると、プロ・チョイス or プロ・ライフの戦いで、女性が中絶を選択出来ることに賛同するのか、胎児の命を守ることこそが大切なのかといった価値観の対立とも言えますが、このブログ流的な言い方をすれば、宗教、精神性に重きを置くべきか、リベラリズム、唯物論的な思考に価値観を見いだすのかということになります。 さて、ここでマザーの言葉を載せておきましょう。 (マザー・テレサが亡くなった後を受け継いだ、シスター・ニルマナから、マザーの本を書くことを許された数少ない、日本人の五十嵐薫という方がみえますが、彼は自らも親を泣かせる経験をしたことから、不登校や悩みを持つ青少年達と共同生活を送る活動を始め、彼等とマザー・テレサの元でボランティア精神を学ぶ「インド心の旅」という活動を現在も続けておられます。彼の著書から一部を抜粋させて頂きます。) 私たちは一人ひとりが神様の子供であり、神様の手で創られました。 自らに似せて神が創造したのです。 胎児もまた、神の手によって創られたのです。 たとえ母親が忘れても、神があなたを忘れることはない。 堕胎は最大の平和の破壊なのです。 今私たちがここにいるのは、両親が生まれてくることを望んだからです。 もしも両親がそれをのぞまなかったら、私たちはこの世に存在していないでしょう。 しかし一方、数百万人もの命が、毎

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その三

我が国ではある程度のセイフティネットが機能しているので、餓死するような貧困や、路上で石ころのように死んでいたというようなケースは希ですが、インドではカースト等の悪習があるせいか、路上で人が死んでいるのは結構日常茶飯事なことです。 日本に於いて本当に深刻なことなのは、心の貧困を抱えた人がとても多いということです。 前章でもお話しした通り、本当に辛いのはお金や着るものや食べ物等の物質的な貧困ではありません。 食べるものが無いことは、周りの配慮で何とか満たすことが出来ます。 たとえどんなに豊かな世界であっても、本当に貧しいことは、魂の孤独、自分は誰からも必要とされていない、誰からも愛されていないといった、心の闇の中での絶望感を味わうことで、それほど辛くて苦しいものはありません。 そういった心の内面の飢えや渇きは、表に出ない分、取り除くことは非常に困難なのです。 マザー・テレサは、日本からやってきたボランティアの人達にこのような話をしています。 あなた方はわざわざ遠い日本からインドヘ来られましたが、繁栄した日本には物質的な貧困はあまりないでしょう、でもあなたの周りには心の貧しさを抱えた人達が沢山いらっしゃいます。 あなた達は日本で、どうかご自分の周りのそういった方たちを救ってあげてください。 マザーは1981年から三度、日本を訪問して居ますが、日本の現状を、神に裏打ちされた確かな心の目で喝破しています。 日本における公演で彼女は、物質的には豊かである筈の日本でも、精神的に飢えて疲弊している人達が大勢いること、その人達に対して周りの者がもっと目を向けて救いの手を差しのべなくてはならないということを伝えています。 さらに、このようにも話しています。 貧しい者は、パンに飢える人や路上生活者だけではありません。 豊かさの中にあっても、愛に飢える人、社会から見捨てられる人はもっと貧しい。 それよりももっと困難なのは、精神的な飢え、愛の渇き、心の飢えの方です、と。 続く

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その二

マザー・テレサが始めた神の愛の宣教者会は最も貧しい人々のために働くという使命のもと、そこに仕えるシスター達は、そういった彼等と気持ちを分かち合うため自らも清廉で清貧であるということを厳しく律するよう求められました。 そこには日本を始め世界中から本当に沢山のボランティアが集っていますが、マザー・テレサが彼等に常々伝えていた言葉があります。 それは五本指の教えと言われる、You  did  it  to  me   という言葉でした。 この世のなかには、肉体的にも精神的にも満たされていない人達があなたの周りにも居ます。 重い病気に肉体を冒されている人、家もなく毎日の食事も満足に食べることが出来ない人、生まれつきの障害を抱えて一人では生きていけない人、親に見放されて愛に飢えている人、孤独にさいなまれている人、何故自分は生まれてきたのだろうと人生の暗闇のなかでもがき苦しむ人、そういった人達にもしも接することが出来た方達は、何と幸いな人達なのだろうかと思います。 マザー・テレサは言います、そういった人達に尽くすということは、実はイエス・キリストに尽くすことと同じだったのです。 あなたの目の前に現れた彼等は、イエスの身代わりとなって苦しみを背負った人達だったのでしょう。 自分は今、あるご縁があってハンディを背負った方達のお世話をさせていただく仕事をしていますが、一見端から見れば、自分がその人達の介助をしているように見えても、実は介助をするという行為を通して、彼等から自分自身が、心の部分で本当に色々なことを学んでいるという事をつくづく実感しています。 介助をして貰っているのは、実は己の魂だったのです。 人には肉体と精神が備わっており、精神にはいろんな感情が沸き上がって来るのですが、障害を持った方達は、実は自分自身の感情を炙り出す鏡だったのです。 マザー・テレサは世界中からやって来たボランティアの人達に最初に必ず伝えている事があります。 それは、あなた達はボランティアをしに此処へ来たのではないですよ、あなた方自身がボランティアをされるために来たのです、と。 世界に目を向けると、途上国では、恐ろしい程の貧困に苛まれている人達が居ます。 それに比べてイーロンマスクやビル・ゲイツ、ジェフベソス等のGAFA 勢を初めとする世界の富豪トップ10は、コロナ禍以降、何と資産が倍増しています。 し

コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その一

自分は数年前に、あるご縁があってAT県のあま市という所に一時期住んでいました。 このあま市という所は、平成の大合併によって近隣の三町が一つの市になったのですが、人口も然程多くはなく、それぞれの町にあった商店街も小じんまりとしており、郊外ヘ少し出ればすぐに田んぼや畑が一面に広がるような、養老山脈に沈む夕日が筆舌に尽くし難い程美しいところでした。 本当に何度、夕暮れ時の魔法のような時間を数年間過ごせたことでしょうか。 その頃、たまたまマザー・テレサの本を読んでいたのですが、ある時タブレットでグーグルマップを何気に見ていると、郊外にポツンとある教会を見つけました。 そこは 神の愛の宣教者会、というカトリック系の修道会で、何と! あのマザー・テレサの教会だったのです。 神の愛の宣教者会は、世界の百五十あまりの国で、五千人程のシスター達が活動をされていますが、日本では東京の山谷と大分の別府、そして、このあま市の三箇所のみという何とも奇跡的なご縁で、しかも車で自宅からたった数分の所にマザー・テレサの教会があったのです。 (これも自分にはよくあるシンクロですね。) 早速車で現地まで出掛け、運良くシスター長がみえましたのでご挨拶をし、そこからシスター達とのお付き合いが始まりました。 時折シスター長から突然携帯に連絡があり、宛名書きや庭の草刈りなどの雑務のボランティアや、教会内でのイベントの料理のお手伝い等、いろいろなことをさせて頂きましたが、その他にも、定期的に何処かの公園での炊き出しもされているようでした。(残念ながら、それには参加することは叶わなかったのですが) またシスターの横で、マザーがされているような礼拝も一緒にさせて頂いたこともありました。 その礼拝とは、シスターがその手に持った、ロザリオのネックレスの玉を指で一つずつ数えながら、英語でその都度祈りの言葉を神に捧げるのですが、玉の数は百以上ははあったでしょうか、この祈りの時間こそが、シスター達にとって神と語らい触れ合う本当に大切な時間であるのだと感じました。 この為だけに彼女達は在るのだとさえ、自分には感じられる瞬間でした。 自分は洗礼など受けてはいないし、ましてやカソリックの信者でもありませんが、マザー・テレサの、神の愛の宣教者会の素晴らしいところは、たとえキリスト教徒であっても無くても、たとえどのような人でも受け入れ

偏差値教育について考える

今年も自分が卒業した母校から、年に一回の便りが届きました。 毎年内容的には殆ど同じで、校長や理事長の挨拶、東京や関西、地元で行われた同窓会の報告、世間で成功したと思われる卒業生へのインタビュー記事、退任した教師の記事、後、今年度の卒業生の受験結果、最後に今年度の懇親会(飲み会)を兼ねた年に一度の総会案内etc....。 自分が出た高校は、地元では一応進学校であることを売りにしていましたので、東大、京大を始め旧帝大何名、国公立大何名、医学部何名、早慶を始め有名私大何名と事細かに記載報告があり、学校としてもその数字の増減に毎年一喜一憂しているという感じです。 少し前にお盆のブログで書いた通り、自分は理数系がからっきし駄目だったので、国公立はその時点で既にアウト、学校からしてもまあ、半分お荷物扱いで期待される訳でもなく、特に学年主任であった数学の教師は(仏の〇〇と他の生徒達から言われていたにも関わらず)ウマが合わなかったのか、自分には事有る毎に非常に厳しく当たり、そういったこともあったせいか、はっきり言ってあまり母校の事が好きにはなれませんでした。 しかし個別の先生方のなかには、本当に素晴らしい人も居ましたし、学校としては露骨な区別は無かったものの、勉強の出来た部類の生徒と、そうではない生徒との間に明らかに対応の差をつける教師も居て、毎年恒例の総会にも、勉強が出来た卒業生がどちらかと言えば出席する傾向にあるのは客観的事実だと感じます。 世間においては、未だにそういった偏差値教育偏重の傾向が根強く、何処の大学を出たという事実だけでややもするとその人の価値や評価を決めてしまう傾向があります。 勉強が出来ていい大学に入り、いい会社や良い地位につけばお金も入り人生幸せになれる、と本気で思っている親達が居ますが、果たしてそういった親の元に生まれた子供達は幸せなのでしょうか? 勉強が出来るということは、その魂のほんの一部分の特質を表しているに過ぎません。 例えば百人の人を無作為で選び、ヨーイドンで走らせれば一位から百位迄順位が出来ますし、百人の人をカラオケに引っ張って行って歌わせれば、一位から百位迄得点が並ぶ事でしょう。 偏差値教育の最大の弊害とは、ある子供のほんの一部の特性であるたまたま勉強が出来ないという事だけで、先生が学校で成績の良い子達を可愛がり、勉強が出来ない子供は疎んじら

信長ゆかりの地の切利支丹たち エピローグ

小原の地の大地主であった小倉本助は、村人達が捉えられて処刑されたり、転んだり(棄教)することを恐れて、自らの田畑、家財のすべてを投げ出し、出奔し行方知れずとなりました。 きっと彼には本家の主人として妻や家族が居たでしょうし、彼自身や家族達も非常に悩みに悩んだ末に、そういった結論に至ったのだと思われます。 しかも彼等が守ろうとした村人達は、地頭の役人の甘言に乗り検地を受け入れてしまいました。 本助自身も田畑、家財の全てを村人に分け与えてしまったので当然帰る家もなく、当主がいなければお家も断絶してしまいます。 記録には残っていませんが、家族達は分家や親戚筋に身を寄せることになったのではないかと思われます。 自分や自分の家族を犠牲にし、お家の血筋を絶やしてまで彼をその様な行動に駆り立てたものは、一体なんだったのでしょうか? 話は少し逸れますが、あのマザーテレサがコルカタでカソリックの学校の校長をしていた折、街が内乱で非常に危険な状態となり、彼女等は疎開を余儀なくされてしまいます。 疎開先のダージリンへ向かう列車の中で彼女は、 町へ出てもっと貧しい人々のなかで働くように、 との啓示を受けたと一般的には言われています。 しかし実は、列車のなかで彼女の前に突然イエスが現れ、 私は渇く、 と話されたのです。(この経緯についてはまた別のトピックでお話させて頂きます) 彼女はその事に衝撃を受け、それからの彼女の事は皆さんがご存じの通りで、飢えて家の無い路上の人、身体の不自由な人、ライ病の人、誰からも愛されていない人、誰からも必要とされていない人々のために、彼女はその生涯を捧げました。 キリスト教の本質は一言で表すと「愛」ですが、愛とは本来何の見返りも求めないのが愛の愛たる所以なのです。 イエスがマザーテレサの前に現れて、私は渇く といわれたように、私達の人生の前には、常にイエスの身代わりとなった人々が現れます。 利他の愛、無償の愛は、言うは易いことですが、実はそこには己の感情の押し付けや驕りの気持ちが潜んでいる場合があります。 本助の目の前の隠れ切利支丹である村人こそが、実は彼にとってはキリストの顕現であったのでしょう。 彼はただ、無償の愛を貫いただけで、それは有現の何物にも代えがたい、当然の行為だったのでしょう。 終わり

信長ゆかりの地の切利支丹たち 後編

イメージ
渡辺氏の資料によると、この地域にいつ頃からキリシタン信仰が入ってきたのかは、特定出来ないそうです。 ただ、戦国の世にこの地区を治めていた小原城の城主であった小倉織部という人物が切利支丹ではなかったかと言われています。 その血筋を受けた小倉家はこの地域の大地主だったそうです。 しかし最後の当主となった小倉本助は、突然小原村で自分が所有していた土地と家財を全て村人達に分け与えたうえ、廻国巡礼の旅に出て行方知れずとなり、小倉家は断絶してしまいます。 村の記録によると、ときの地頭である村役人が小原村の田地の再丈量(田畑の計測をし直す)を通告してきましたが、小倉本助以下村人がこぞってそれに反対し抵抗するものの、村人が地頭の甘言に乗ってしまい検地を受け入れる事に同意をしてしまったそうです。 本助は最後まで検地に抵抗しましたが、やがて観念したのか上記の通り、その土地や家財を全て村人達に与えたのち、自らは巡礼の旅に出ると周りに伝え、村から消息を絶ってしまいます。 何故彼がその様な行動に出たのかは未だにはっきりとはわかっていません。 しかし彼がいなくなった理由は、本助や村人たちが実は切利支丹であり、その事が検地によって役人が村に入ることによって発覚することを恐れ、本助が村人を守るためにただ一人村から出ていったのではないかという説があります。 小原地区の隣の西洞(さいと)地区にある小倉家の分家の墓には、逆卍が彫られた墓碑が残っている為、今では小倉家そのものが、切利支丹信仰の中心的な役割を果たしていたのではないかと考えられています。 最初に遺物が発見された七御前の前には、数百年に渡ってひっそりと信仰を貫き通して来た土地のご先祖様達の霊を慰めるため、そしてこれからの平和を願ってマリア像が建立されています。 そのお顔は何と慈愛に満ちていることでしょう。 終わり

信長ゆかりの地の切利支丹たち 中編

イメージ
前回の隠れ切利支丹のブログでお伝えした通り、千六百年代中盤、尾張藩北部地域から美濃地方にかけて、切利支丹信者が多数捕らえられ処刑された記録が残っています(尾張美濃崩れ)。 しかし御嵩町にはこれまで隠れ切利支丹の伝承や記録は全く残っていなかったので、この地でキリシタン遺物が発見されたのは地元住民にとつても大きな驚きでした。 御嵩町のキリシタン研究家で、キリシタンに関する本も出されている渡辺正司さんの資料によると、この地区では小原村を中心に、十字架が刻まれた水神の碑や十字架陽刻碑、聖母マリア像、逆卍墓碑等が次々に発見されたそうです。 小原地区では、さらに上記の遺物の他にも、神社の拝殿奥に収められていた十字架碑、観音堂では「天主 之拝」と墨書きされた厨子(しず、堂の形をした左右に戸の開く箱)が見つかりました。 謡坂地区内の幸福寺釈迦堂跡からは「南無阿弥 絶 仏」と彫られた笠塔婆が見つかり、後になってその塔婆の下から聖母マリア像が出てきました。 この幸福寺という寺は、1661年、可児郡塩村というところで二十四名の切利支丹の処刑が行われたあと、1664年に突然廃寺にされました。 その地区の謡坂村、小原村、西洞(さいと)村などはその後強制的に檀那寺が変更になりましたが、これは切利支丹がこの地域に居たためではないかと言われています。 続く

信長ゆかりの地の切利支丹たち 前編

イメージ
美濃の岐阜市より40km程東へ行ったところに御嵩町という町があります。 ここは江戸時代は中山道が通っていた所で御嵩宿という宿場町がありました。 そこから更に中山道の街道沿いに山の方へやや北東の方角、6km進むと、謡坂(うとうざか)という地区があります。 ここは本当にのどかな、里山という雰囲気が残っており、この地に立つとまるで時が止まったように感じられるところです。 昭和五十六年三月、この地区で道路拡張工事があり、七御前という近寄ると祟りがあると言われ、通常人が近づかない場所で、仏教の墓石である五輪塔が多数あった場所を移築したところ、その土中から多数の十字を彫った自然石などの遺物が出てきたことから、この地が仏教の墓地を利用した、隠れ切利支丹の里であったことが判明しました。 その後の発掘調査で、謡坂村、小原村、西洞(さいと)村一帯で切利支丹遺物が多数発見されました。 それまでこの地域には、切利支丹がいたことは全く知られていませんでしたので、非常に大きな話題となりました。 中山道、謡坂の石畳。 この地名の由来は、中山道を旅する人々が、あまりにも急な坂道なため、苦し紛れに歌を歌っていたことから、うたうさか、が次第に訛って、うとうざかになったと伝えられています。 道の上を覆う木々や草花などが、今も当時の風情を色濃く残しています。 中編へ続く

我が町の隠れ切利支丹にまつわる話 その十二 エピローグ

文化庁の統計によると日本の宗教団体の総数はおよそ十八万団体有り、その九割近くが神道、仏教系で、その総信者数を足すと一億八千万人にもになるそうで、どう考えても数字が合いませんが、これこそが日本人の宗教観を如実に表すものだと思われます。 ユダヤ教やキリスト教、イスラム教と、日本の神道、仏教は、そもそも神や仏と人間との立ち位置が全く違いますので、切支丹が殉教するということが、一般的な日本人の感覚からするととても分かりにくいのかもしれません。 秀吉が1597年(慶長元年)に切支丹を捕縛し、長崎送りにして西坂の丘で磔にした二十六人は、日本の二十六聖人として1862年、ローマ教皇ピウス9世によって列聖されています。 しかし、この地で数百年前に、為政者の弾圧によって殉教した数千名の名も無き人々こそが、その志を貫き通して高い次元まで昇華させた、魂を生きた人々であると自分は思っています。 自分がもしも当時の切利支丹達と同じ様に、自らが信ずる摂理と死のどちらかを選ぶ選択を迫られたとしたら、一体どうしたでしょうか? 自分は今、肉体を纏ってこの三次元の世界で生きていますが、実はその内在する魂こそが人の本質であり、その次元が今生きている我々の次元に決定的に影響を及ぼし包括しているという事を自分は幸いなことに知っていますので、その摂理を捨てるということは絶対にあり得ません。 長崎の地で殉教し列聖された二十六聖人のうち、ルドビゴ茨木という十二歳の少年が居ました。 処刑を担当する責任者がその幼さを不憫に思い、教えを棄てればお前の命は助けてやると言ったものの、彼は「この世のつかの間の命と、天国の永遠の命を取り替えることなど出来ない」と、毅然としてその申し出を断りました。 自分の答えもやはり「否」です。 自分は、切支丹としてどのような人生を歩んだのであったかは聞かされませんでした。 果たして自分は転んだのか、はたまた斬首や火炙りにあったのか、隠れ切利支丹としてひっそりとその人生を全うしたのか、それは今を生きている自分にはわかりません。 しかし彼らの想いは今の自分にもはっきりとわかります。 彼等のすべての人が、その想念の世界である魂のふるさとに帰っているということを。 このブログが終わった後、自分はこの地で殉教した宣教師を慰霊するために建てられた水掛地蔵と、市内の浅野公園というところの入口にひっそりと佇

我が町の隠れ切利支丹にまつわる話 その十一

二十年以上前に亡くなっていますが、幼い頃受洗したクリスチャンで、ノーベル賞の候補にも挙げられたことがある遠藤周作という小説家がみえました。 彼の代表作で、日本人の精神性とキリスト教的価値観との相反的な相克を描いた「沈黙」という小説があり、これは遠藤周作の傑作として海外でも高く評価されています。 このお話は、江戸初期に司祭として日本にやって来たあるポルトガル人が、時の為政者の厳しい弾圧に合い、葛藤を抱えながらも改宗を迫られ拷問を受ける彼の信徒達を救う為に、自らがキリスト教を棄教せざるを得なかった心情を描いた作品です。 俗にいう転び伴天連(棄教した宣教師)のお話なのですが、数年前に映画化もされていますのでご興味のある方は是非レンタル等でご鑑賞してみて下さい。 当時は彼のように過酷な弾圧を受け転ばざるをえなかった人々や、どんな拷問にも決して屈せず己の信念を貫いて殉教した人々、危うく難を免れるも信仰の道を貫くためにひっそりと世間から隔絶して生きねばならなかった人々等、たとえどのような道が待ち受けていようとも、利支丹の信徒達にとっては過酷で苛烈な茨の人生であったことでしょう。 今回のトピックを書いていて、彼らのことを想う度、自分は何度も何度も込み上げてくる気持ちを押さえる事が出来ませんでした。 ある人は思うでしょう、死ぬ位ならさっさと踏み絵を踏んで改宗すれば良いではないかと。 しかし踏み絵を踏み転ぶ(棄教する)ということは、厳しい制約を沢山課された証文を書かされ、一族郎党それを一生涯強いられ、強制的に突然何処かの寺の檀家に組み込まれて、その教えやしきたりを強いられるということを意味します。 このブログをご覧のあなたが、たとえば確固たる信念を以て一つの真理を確信しながら生きてきたとします。 しかし突然誰かがあなたの前に現れて、今流行りの(笑)例を挙げるなら、お前は明日から統一教会の信者になり、キリストの生まれ変わりである文鮮明の教えを忠実に守って、霊的に劣った日本人の魂を浄化するためにその身を韓国に捧げ寄進しなさい、といわれたらあなたはその教義を受け入れることができますか? これは決して大袈裟な話等ではなく、文鮮明は彼の講話のなかで実際にそのようなことを言っていましたし、以前の「統一教会の闇」のブログでも指摘した通り、詐欺的ともいえる手法を使って日本の人達から浄財を掠め取ってい

わが町の隠れ切利支丹にまつわる話 その十

時代は徳川の世に移り、切支丹にたいする弾圧はますます激しさを増していきます。 この尾張の地でも、三代将軍徳川家光の厳命により、尾張藩は踏み絵、宗門改宗等で厳しい信者の取り締まりに乗りだし、信者五十七名を召しとりました。 我が町でも特に指導的な役割を果たしていた四名、ポール兵右衛門、コスモ道関、レオン庄五郎、シモン久三郎を印伝郷裏、常光一本松塚というところで火炙りの刑に処しました。 さて、皆さんはこのトピックの最初に出てきた、八劔社境内の空圓上人の碑の側面と台座部分に彫られていた文字を覚えておいででしょうか? 左側面には「センテンセ」、裏の台座部分には「クロタセウ」と彫られていましたが、これはポルトガル語かスペイン語の日本語訛で、それぞれ「判決宣告」、「はりつけ、火炙り」を意味しています。 おそらく信者の方が、この地で宣教師的な役割であった四名の事を偲び、人知れず後の世に残すために、ひっそりとわからないように彫ったのでしょう。 今ではこの四名を慰霊するために、市内の常光寺というお寺で水掛け地蔵が供養されています。 その十数年後にも同じく市内で、指導者格の喜多郎とその妻、他十数名の信者が市の南部、大字平という所で斬首の刑に処せられています。 この地域では弾圧による殉教者がその後もあとをたたず、1661年、四代将軍家綱の時代には尾張、美濃合わせて三千名もの切利支丹が弾圧により殉教したと伝えられています(尾張美濃崩れ)。 この殉教者の数からすると、もしも弾圧がなければ如何にこの地が切支丹信仰の聖地となるはずであったかがわかります。 からくも処刑を免れ隠れ切支丹となった彼等は、代々村八分などの差別を受け続け、永らくの間、苦難の信仰の道を歩まねばなりませんでした。 続く

わが町の隠れ吉利支丹にまつわる話 その九

この地は戦国の世から、歴史に名だたる信長、秀吉、家康という三英傑が登場した関係から、切支丹との関わりが非常に強い土地柄でした。 織田信長は霊的な功罪はともかく(彼はあまりにも人を殺し過ぎました)、非常に個性的で進取の気性に富んだところがあり、南蛮人や宣教師たちを厚遇したため、自分が住んでいるこの尾張の地や、信長の所領である美濃地方に沢山の受洗者を生み出しましたが、それも秀吉の時代になり、あることが起こってから、その様相は一変する事となります。 九州の切支丹大名であった大村純忠が自分の領地の一部である長崎を、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上をイエズス会に寄進していた事が発覚します。 更にその切支丹大名が、南蛮人との貿易で火薬を手に入れる為に民衆を奴隷として代わりに売り渡し、奴隷貿易に関わっていた事が秀吉の耳に入り彼は激怒します。 一説によると、これ以外にもポルトガル商人によって海外へ奴隷として連行されていった日本人は、少なくとも五万人にも上ると言われています。 そして日本に来ていた宣教師達のことを、当時の西欧列強の尖兵隊的な役割をしているのではないかと秀吉は疑いを持ち(宣教師→商人→軍隊という図式で国を乗っ取る植民地化計画)、伴天連(バテレン、ポルトガル語のパードレ、宣教師という意味が訛ったもの)追放令を出して宣教師らを国外へ追放、さらにキリスト教の布教を禁止し、信者に対しても棄教を迫る等厳しい圧迫を加えるようになりました。 しかし当時のポルトガルやスペインの、他の有色人種国家に対する侵略的で威圧的な植民地政策を考えるに、秀吉の取った禁教政策は、日本という国家を守るためにはやむを得ない部分が多分にあったのは認めねばなりません。 慶長元年十二月(1596年)には、スペイン人宣教師、修道師六人を含めた二十六名が長崎送りになり、彼の地で火炙りの刑に処せられ殉教しています。 これについてはポルトガルよりも、更に露骨に日本の植民地化を推し進めようとしていたスペインに対して、秀吉が示威行為、みせしめの為に行った措置だと言われています。 秀吉が信徒を大量に処刑したのはこれが唯一のことでした。 秀吉が亡くなり、時代は徳川の治世の世になりましたが、徳川幕府の幕藩体制の維持に組込めない彼等異分子の異教徒にとって、更に前途多難な過酷な運命が彼等を待ち受けていました。 続く

わが町の隠れ吉利支丹にまつわる話 その八

毎年恒例のお祭りは五日間に及び(現在では少し短縮されたようですが)、百五十万人以上の方達が近隣の市町村からやってみえます。 なかにはわざわざ県外の遠方から来て頂いて居る方もみえて、そうした方々にも楽しんで頂けるように沢山の特価品を毎回お祭り用に用意しておりました。 例の初日の出来事の後に、セール用に書くポップの紙や手提げ袋等販促用品が色々と少なくなっていましたので、必要なものをパッケージの業務用専門店まで買い出しに行くことにしました。 その帰り道、車がちょうど信号で止まりましたので何気無く横を向いたところ、ある教会が真横にあり、手を大きく広げたイエス・キリストの像が視界に飛び込んで来ました。 しかし通常であれば、お祭りで忙しいので急いで店に帰るところなのですが、その目に入った像がどうしても気になり、車を脇道から少し入ったところに停車してそのイエス・キリストの像の所迄歩いて行ってみました。 そこで自分が目にしたのは、像の下にあった石板に長々と彫られたこの地方の四百年以上に渡る切支丹信徒の、弾圧と苦難の殉教史でした。 自分はそれまで、自分が生まれ育ったこの地域にそのような歴史が有ったことなど全く知る由もありませんでした。 そしてそれは、先程迄お店に見えていた霊的な素養があるお客さんが自分に対して霊視したことと、非常に重なる部分がありましたが、ここで一つだけ言っておかねばならないのは、彼女は決してクリスチャンなどではなく、ある神道系の宗教の信者さんでした。 このことは、実はお店のまた別の常連さんで、その宗教団体にご夫婦で入信して居るという方がみえまして、そのご夫婦に先日○○からこういう人が突然みえて、こういうことを言われましたといった経緯を話したところ、そのご夫婦は、その人とはあまり直接話したことは無いけれども、自分が住んでいる町の支部の信者さんの○○さんという人だと思いますよという話から、彼女の素性というものがやっとわかりました。 おそらくというか、彼女は自分のことを○○○○会というその宗教団体にどうしても勧誘したかったのだろうと思います。 切支丹といえば、島原の乱等の歴史的な背景から九州、特に長崎を直ぐに連想する方が多いと思います。 しかし実はこの尾張地区や美濃にも、沢山の切支丹の方達の苦難の歴史があったのです。 続く

我が町の隠れ切利支丹にまつわる話 その七

自分の事を霊視した人と、翌日にメダイとネイティビティーを持ってみえた人、このお二人は示し会わせてお店に来た訳でもありませんし、たまたま奇跡的な偶然で自分の前に現れたのでしょうか? この現象は、実は分析心理学の大家であるユングが提唱した、共時性(シンクロニシティ)と言われるものです。 これは一見何の関係もない二つの出来事が、必然的な意味合いを持って起こるというもので、簡単に言うと偶然を装った必然ということができます。 ユングはこれを、人間が深層意識における集合意識の部分で繋がっているために起こると提起しましたが、これは自分に言わせれば非常に簡単な話で、このブログで何度もお話している通り、人間とは本来は霊主体従の存在で、人の本質とは本来は霊であり魂なのです。 ですから霊的な次元で考えれば、魂の想い、想念は、瞬時に露見し相手に伝わる訳ですから偶然、必然もへったくれもない至極単純な話であって、三次元的な制約で捉えるから不思議な話のように感じる訳です。 このブログをお読みの皆さんも、こういった共時性的な体験は、本当のことを言わせて頂くとあなたの周りでは沢山起こっていますが、全く違う場面で起こっていることと、三次元的な感覚で我々が捉えている為に、多くの場合それに気付かないで遣り過ごしているだけなのです。 何度も言いますが、人は三次元の制約を受けた肉体と、四次元以上の広がりに属した魂から成っており、三次元的なフィルターで感じるか、四次元的なフィルターで感じるかの違いでシンクロが起こってくるのです。 メダイを持ってみえた彼女は、その様子からしておそらくお店に入るつもりは全くなかったと思います。 しかし、クリスチャンでもなかった彼女が、自分の四次元領域である強い想念に感応した為に、キリスト教の祈りの道具である聖具を自分に託したのだろうと思います。 そしてこの話には、実はもう一つのシンクロがあったのです。 お楽しみに、続く