我が町の隠れ切利支丹にまつわる話 その十一

二十年以上前に亡くなっていますが、幼い頃受洗したクリスチャンで、ノーベル賞の候補にも挙げられたことがある遠藤周作という小説家がみえました。


彼の代表作で、日本人の精神性とキリスト教的価値観との相反的な相克を描いた「沈黙」という小説があり、これは遠藤周作の傑作として海外でも高く評価されています。


このお話は、江戸初期に司祭として日本にやって来たあるポルトガル人が、時の為政者の厳しい弾圧に合い、葛藤を抱えながらも改宗を迫られ拷問を受ける彼の信徒達を救う為に、自らがキリスト教を棄教せざるを得なかった心情を描いた作品です。


俗にいう転び伴天連(棄教した宣教師)のお話なのですが、数年前に映画化もされていますのでご興味のある方は是非レンタル等でご鑑賞してみて下さい。


当時は彼のように過酷な弾圧を受け転ばざるをえなかった人々や、どんな拷問にも決して屈せず己の信念を貫いて殉教した人々、危うく難を免れるも信仰の道を貫くためにひっそりと世間から隔絶して生きねばならなかった人々等、たとえどのような道が待ち受けていようとも、利支丹の信徒達にとっては過酷で苛烈な茨の人生であったことでしょう。


今回のトピックを書いていて、彼らのことを想う度、自分は何度も何度も込み上げてくる気持ちを押さえる事が出来ませんでした。


ある人は思うでしょう、死ぬ位ならさっさと踏み絵を踏んで改宗すれば良いではないかと。


しかし踏み絵を踏み転ぶ(棄教する)ということは、厳しい制約を沢山課された証文を書かされ、一族郎党それを一生涯強いられ、強制的に突然何処かの寺の檀家に組み込まれて、その教えやしきたりを強いられるということを意味します。


このブログをご覧のあなたが、たとえば確固たる信念を以て一つの真理を確信しながら生きてきたとします。


しかし突然誰かがあなたの前に現れて、今流行りの(笑)例を挙げるなら、お前は明日から統一教会の信者になり、キリストの生まれ変わりである文鮮明の教えを忠実に守って、霊的に劣った日本人の魂を浄化するためにその身を韓国に捧げ寄進しなさい、といわれたらあなたはその教義を受け入れることができますか?


これは決して大袈裟な話等ではなく、文鮮明は彼の講話のなかで実際にそのようなことを言っていましたし、以前の「統一教会の闇」のブログでも指摘した通り、詐欺的ともいえる手法を使って日本の人達から浄財を掠め取っていたのは厳然たる事実であり、しかも(自分には全く信じられませんが)日本人の信者が何万人もいるというのは歴然たる事実なので、それを受け入れることが出来るかどうかという話なのです。


自分はどうやら数百年前に切利支丹であったであろうことは確信していますが、もしもその時代に藩の役人によって捕縛されていたならば、自分なら果たしてどうしただろうかということを夢想します。


この話は続きます、いよいよ次回は最終章です。









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