わが町の隠れ吉利支丹にまつわる話 その九

この地は戦国の世から、歴史に名だたる信長、秀吉、家康という三英傑が登場した関係から、切支丹との関わりが非常に強い土地柄でした。


織田信長は霊的な功罪はともかく(彼はあまりにも人を殺し過ぎました)、非常に個性的で進取の気性に富んだところがあり、南蛮人や宣教師たちを厚遇したため、自分が住んでいるこの尾張の地や、信長の所領である美濃地方に沢山の受洗者を生み出しましたが、それも秀吉の時代になり、あることが起こってから、その様相は一変する事となります。


九州の切支丹大名であった大村純忠が自分の領地の一部である長崎を、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上をイエズス会に寄進していた事が発覚します。


更にその切支丹大名が、南蛮人との貿易で火薬を手に入れる為に民衆を奴隷として代わりに売り渡し、奴隷貿易に関わっていた事が秀吉の耳に入り彼は激怒します。


一説によると、これ以外にもポルトガル商人によって海外へ奴隷として連行されていった日本人は、少なくとも五万人にも上ると言われています。


そして日本に来ていた宣教師達のことを、当時の西欧列強の尖兵隊的な役割をしているのではないかと秀吉は疑いを持ち(宣教師→商人→軍隊という図式で国を乗っ取る植民地化計画)、伴天連(バテレン、ポルトガル語のパードレ、宣教師という意味が訛ったもの)追放令を出して宣教師らを国外へ追放、さらにキリスト教の布教を禁止し、信者に対しても棄教を迫る等厳しい圧迫を加えるようになりました。

しかし当時のポルトガルやスペインの、他の有色人種国家に対する侵略的で威圧的な植民地政策を考えるに、秀吉の取った禁教政策は、日本という国家を守るためにはやむを得ない部分が多分にあったのは認めねばなりません。


慶長元年十二月(1596年)には、スペイン人宣教師、修道師六人を含めた二十六名が長崎送りになり、彼の地で火炙りの刑に処せられ殉教しています。


これについてはポルトガルよりも、更に露骨に日本の植民地化を推し進めようとしていたスペインに対して、秀吉が示威行為、みせしめの為に行った措置だと言われています。


秀吉が信徒を大量に処刑したのはこれが唯一のことでした。


秀吉が亡くなり、時代は徳川の治世の世になりましたが、徳川幕府の幕藩体制の維持に組込めない彼等異分子の異教徒にとって、更に前途多難な過酷な運命が彼等を待ち受けていました。


続く








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