我が町の隠れ切利支丹にまつわる話 その十二 エピローグ

文化庁の統計によると日本の宗教団体の総数はおよそ十八万団体有り、その九割近くが神道、仏教系で、その総信者数を足すと一億八千万人にもになるそうで、どう考えても数字が合いませんが、これこそが日本人の宗教観を如実に表すものだと思われます。


ユダヤ教やキリスト教、イスラム教と、日本の神道、仏教は、そもそも神や仏と人間との立ち位置が全く違いますので、切支丹が殉教するということが、一般的な日本人の感覚からするととても分かりにくいのかもしれません。


秀吉が1597年(慶長元年)に切支丹を捕縛し、長崎送りにして西坂の丘で磔にした二十六人は、日本の二十六聖人として1862年、ローマ教皇ピウス9世によって列聖されています。


しかし、この地で数百年前に、為政者の弾圧によって殉教した数千名の名も無き人々こそが、その志を貫き通して高い次元まで昇華させた、魂を生きた人々であると自分は思っています。


自分がもしも当時の切利支丹達と同じ様に、自らが信ずる摂理と死のどちらかを選ぶ選択を迫られたとしたら、一体どうしたでしょうか?


自分は今、肉体を纏ってこの三次元の世界で生きていますが、実はその内在する魂こそが人の本質であり、その次元が今生きている我々の次元に決定的に影響を及ぼし包括しているという事を自分は幸いなことに知っていますので、その摂理を捨てるということは絶対にあり得ません。


長崎の地で殉教し列聖された二十六聖人のうち、ルドビゴ茨木という十二歳の少年が居ました。


処刑を担当する責任者がその幼さを不憫に思い、教えを棄てればお前の命は助けてやると言ったものの、彼は「この世のつかの間の命と、天国の永遠の命を取り替えることなど出来ない」と、毅然としてその申し出を断りました。

自分の答えもやはり「否」です。

自分は、切支丹としてどのような人生を歩んだのであったかは聞かされませんでした。


果たして自分は転んだのか、はたまた斬首や火炙りにあったのか、隠れ切利支丹としてひっそりとその人生を全うしたのか、それは今を生きている自分にはわかりません。


しかし彼らの想いは今の自分にもはっきりとわかります。


彼等のすべての人が、その想念の世界である魂のふるさとに帰っているということを。


このブログが終わった後、自分はこの地で殉教した宣教師を慰霊するために建てられた水掛地蔵と、市内の浅野公園というところの入口にひっそりと佇んでいる殉教した切支丹達の慰霊の碑に行かせて頂き、ブログというものにあなた方の事を書かせて頂きましたと、そして有り難う御座いましたと伝えに行こうと思っています。


終わり

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