コルカタの聖テレジア マザー・テレサ その八

「わたしは渇く」というのは、取りも直さず精神的、肉体的に最も貧しい人々、イエスの乾きの身代わりとなって愛の乾きの体現をしている人々を、イエスの苦しみとして感じ取り、癒やすということです。

そういった意味では、人々を癒やすということとイエスの苦しみ、渇きを癒やすという事は同じことなのです。

マザー・テレサは、ダージリンへの列車の中でそのことに気付かされたのです。

それには貧しい人々と気持ちを同じくするために、彼等と同じ様な清貧な生活をし、貧しい人々の中でも最も貧しい人々の中へ入り、無償の愛を以って彼等に奉仕することを、彼女のその後の人生の使命として貫くこととなったのです。

列車の中での彼女の体験は、一般に言われるようにイエス・キリストからの啓示があったとか、声が聞こえたとか言うようなインスピレーション的なものではなく、もっとリアルで現実的なものでした。

ヨゼフ•ラングフォード神父によれば、マザーは列車の中で、イエスの渇きと出会ったという「イエスの渇きの体験」をしたことこそが、九月十日の出来事のすべてだと語っています。

しかし、マザーがその体験について困惑し、語りたがらなかったのは、語る言葉もなく、言葉によって説明出来無かったということであり、誤解なく伝える事ができなかったということです。

これはいったい何を意味しているのでしょうか。

自分が常々このブログでお話している様な、霊的な摂理がそもそも彼等キリスト教徒の教義にはなく、それ故にマザーは困惑し、神父達もそれについて伝える術がないのでそのような言い回しになったのではないかと思われます。

そういえば自分が以前にお店を経営していた頃、某キリスト教系の熱心な信者さんが、十五年以上にわたってその教会が発行していた小冊子を定期的にお店に持ってみえていましたが、自分がある時その人に霊界の仕組みについて話をしたところ、彼女はそれはサタンの仕業で、幻覚を見せられていると言うような事を話していたのを思い出しました。

自分はイエス・キリストが磔になったあと、復活して十二使徒の前に現れたことや、ファティマの奇跡と言われる、聖母マリアが三人の羊飼いの牧童達の前に何度も現れたことも、自分が常にお話している通り肉体を脱ぎ捨てた状態となってリアルに(霊的な感覚として)現れたのだと思います。

マザーや、そのような奇跡と言われる場面に立ち会うことができた人達は、(ある人には)霊的な素養があり、霊的体験をしたのだと自分は思います。

目の前に現れたイエスをリアルに見て、マザーはさぞかし驚き困惑したことでしょう。

ですから彼女は何日もの間、その体験を自問し、祈り続け、彼女の劇的な人生の転換へと繋げることとなったのでしょう。

1997年にマザー・テレサが帰天した折、彼女は自分が思っていた教義による霊的世界との違いに非常に戸惑ったと思います。

しかし彼女が生きた時代で、マザー・テレサほど無償の愛を体現出来た人はいないと言っても差し支えない程の、(キリスト教的な意味では)人生を捧げ尽くして神の愛を実践された方ですから、非常に高いステージへと帰天されたことでしょう。

本来すべての魂にはそれに相対する宗教というものがあり、霊的な摂理にかなった宗教であれば、教義の違いは解釈の違いのようなもので、根元的な心理はすべて同じところに帰結するのです。


続く

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