信長ゆかりの地の切利支丹たち 後編


渡辺氏の資料によると、この地域にいつ頃からキリシタン信仰が入ってきたのかは、特定出来ないそうです。

ただ、戦国の世にこの地区を治めていた小原城の城主であった小倉織部という人物が切利支丹ではなかったかと言われています。

その血筋を受けた小倉家はこの地域の大地主だったそうです。

しかし最後の当主となった小倉本助は、突然小原村で自分が所有していた土地と家財を全て村人達に分け与えたうえ、廻国巡礼の旅に出て行方知れずとなり、小倉家は断絶してしまいます。

村の記録によると、ときの地頭である村役人が小原村の田地の再丈量(田畑の計測をし直す)を通告してきましたが、小倉本助以下村人がこぞってそれに反対し抵抗するものの、村人が地頭の甘言に乗ってしまい検地を受け入れる事に同意をしてしまったそうです。

本助は最後まで検地に抵抗しましたが、やがて観念したのか上記の通り、その土地や家財を全て村人達に与えたのち、自らは巡礼の旅に出ると周りに伝え、村から消息を絶ってしまいます。

何故彼がその様な行動に出たのかは未だにはっきりとはわかっていません。

しかし彼がいなくなった理由は、本助や村人たちが実は切利支丹であり、その事が検地によって役人が村に入ることによって発覚することを恐れ、本助が村人を守るためにただ一人村から出ていったのではないかという説があります。

小原地区の隣の西洞(さいと)地区にある小倉家の分家の墓には、逆卍が彫られた墓碑が残っている為、今では小倉家そのものが、切利支丹信仰の中心的な役割を果たしていたのではないかと考えられています。

最初に遺物が発見された七御前の前には、数百年に渡ってひっそりと信仰を貫き通して来た土地のご先祖様達の霊を慰めるため、そしてこれからの平和を願ってマリア像が建立されています。

そのお顔は何と慈愛に満ちていることでしょう。


終わり



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