信長ゆかりの地の切利支丹たち エピローグ

小原の地の大地主であった小倉本助は、村人達が捉えられて処刑されたり、転んだり(棄教)することを恐れて、自らの田畑、家財のすべてを投げ出し、出奔し行方知れずとなりました。

きっと彼には本家の主人として妻や家族が居たでしょうし、彼自身や家族達も非常に悩みに悩んだ末に、そういった結論に至ったのだと思われます。

しかも彼等が守ろうとした村人達は、地頭の役人の甘言に乗り検地を受け入れてしまいました。

本助自身も田畑、家財の全てを村人に分け与えてしまったので当然帰る家もなく、当主がいなければお家も断絶してしまいます。

記録には残っていませんが、家族達は分家や親戚筋に身を寄せることになったのではないかと思われます。

自分や自分の家族を犠牲にし、お家の血筋を絶やしてまで彼をその様な行動に駆り立てたものは、一体なんだったのでしょうか?


話は少し逸れますが、あのマザーテレサがコルカタでカソリックの学校の校長をしていた折、街が内乱で非常に危険な状態となり、彼女等は疎開を余儀なくされてしまいます。

疎開先のダージリンへ向かう列車の中で彼女は、 町へ出てもっと貧しい人々のなかで働くように、 との啓示を受けたと一般的には言われています。

しかし実は、列車のなかで彼女の前に突然イエスが現れ、 私は渇く、 と話されたのです。(この経緯についてはまた別のトピックでお話させて頂きます)

彼女はその事に衝撃を受け、それからの彼女の事は皆さんがご存じの通りで、飢えて家の無い路上の人、身体の不自由な人、ライ病の人、誰からも愛されていない人、誰からも必要とされていない人々のために、彼女はその生涯を捧げました。

キリスト教の本質は一言で表すと「愛」ですが、愛とは本来何の見返りも求めないのが愛の愛たる所以なのです。

イエスがマザーテレサの前に現れて、私は渇く といわれたように、私達の人生の前には、常にイエスの身代わりとなった人々が現れます。

利他の愛、無償の愛は、言うは易いことですが、実はそこには己の感情の押し付けや驕りの気持ちが潜んでいる場合があります。

本助の目の前の隠れ切利支丹である村人こそが、実は彼にとってはキリストの顕現であったのでしょう。

彼はただ、無償の愛を貫いただけで、それは有現の何物にも代えがたい、当然の行為だったのでしょう。


終わり














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