信長ゆかりの地の切利支丹たち 中編

前回の隠れ切利支丹のブログでお伝えした通り、千六百年代中盤、尾張藩北部地域から美濃地方にかけて、切利支丹信者が多数捕らえられ処刑された記録が残っています(尾張美濃崩れ)。

しかし御嵩町にはこれまで隠れ切利支丹の伝承や記録は全く残っていなかったので、この地でキリシタン遺物が発見されたのは地元住民にとつても大きな驚きでした。

御嵩町のキリシタン研究家で、キリシタンに関する本も出されている渡辺正司さんの資料によると、この地区では小原村を中心に、十字架が刻まれた水神の碑や十字架陽刻碑、聖母マリア像、逆卍墓碑等が次々に発見されたそうです。

小原地区では、さらに上記の遺物の他にも、神社の拝殿奥に収められていた十字架碑、観音堂では「天主 之拝」と墨書きされた厨子(しず、堂の形をした左右に戸の開く箱)が見つかりました。

謡坂地区内の幸福寺釈迦堂跡からは「南無阿弥 絶 仏」と彫られた笠塔婆が見つかり、後になってその塔婆の下から聖母マリア像が出てきました。

この幸福寺という寺は、1661年、可児郡塩村というところで二十四名の切利支丹の処刑が行われたあと、1664年に突然廃寺にされました。

その地区の謡坂村、小原村、西洞(さいと)村などはその後強制的に檀那寺が変更になりましたが、これは切利支丹がこの地域に居たためではないかと言われています。


続く






コメント

このブログの人気の投稿

わが町の隠れ吉利支丹にまつわる話 その八

わが町の隠れ切利支丹にまつわる話 その十