偏差値教育について考える

今年も自分が卒業した母校から、年に一回の便りが届きました。

毎年内容的には殆ど同じで、校長や理事長の挨拶、東京や関西、地元で行われた同窓会の報告、世間で成功したと思われる卒業生へのインタビュー記事、退任した教師の記事、後、今年度の卒業生の受験結果、最後に今年度の懇親会(飲み会)を兼ねた年に一度の総会案内etc....。


自分が出た高校は、地元では一応進学校であることを売りにしていましたので、東大、京大を始め旧帝大何名、国公立大何名、医学部何名、早慶を始め有名私大何名と事細かに記載報告があり、学校としてもその数字の増減に毎年一喜一憂しているという感じです。

少し前にお盆のブログで書いた通り、自分は理数系がからっきし駄目だったので、国公立はその時点で既にアウト、学校からしてもまあ、半分お荷物扱いで期待される訳でもなく、特に学年主任であった数学の教師は(仏の〇〇と他の生徒達から言われていたにも関わらず)ウマが合わなかったのか、自分には事有る毎に非常に厳しく当たり、そういったこともあったせいか、はっきり言ってあまり母校の事が好きにはなれませんでした。

しかし個別の先生方のなかには、本当に素晴らしい人も居ましたし、学校としては露骨な区別は無かったものの、勉強の出来た部類の生徒と、そうではない生徒との間に明らかに対応の差をつける教師も居て、毎年恒例の総会にも、勉強が出来た卒業生がどちらかと言えば出席する傾向にあるのは客観的事実だと感じます。

世間においては、未だにそういった偏差値教育偏重の傾向が根強く、何処の大学を出たという事実だけでややもするとその人の価値や評価を決めてしまう傾向があります。

勉強が出来ていい大学に入り、いい会社や良い地位につけばお金も入り人生幸せになれる、と本気で思っている親達が居ますが、果たしてそういった親の元に生まれた子供達は幸せなのでしょうか?

勉強が出来るということは、その魂のほんの一部分の特質を表しているに過ぎません。

例えば百人の人を無作為で選び、ヨーイドンで走らせれば一位から百位迄順位が出来ますし、百人の人をカラオケに引っ張って行って歌わせれば、一位から百位迄得点が並ぶ事でしょう。

偏差値教育の最大の弊害とは、ある子供のほんの一部の特性であるたまたま勉強が出来ないという事だけで、先生が学校で成績の良い子達を可愛がり、勉強が出来ない子供は疎んじられる、それのみで人としての序列を付けられるという評価の仕方自体がおかしいと思うのです。

そして本来親というものは、無償の愛で我が子に対して接するものですが、決してそのようではない親、ものだけを与えているような親、自分の価値観を押し付けたり思い通りにしようとする親の子供は、歪んでしまいます。

子供は感受性が強いので、親の愛を感じられない子は、わかってもらえない疎外感から自分は必要の無い人間だと思うようになり、何で自分は生まれてきたんだと自暴自棄になり、家を飛び出し、反社や売春などの非行に走ったり、精神的に重いトラウマを抱え、果ては最悪自死してしまったりします。

この世に生まれ出た魂にはすべてに於いてそれぞれの存在に大切な意味があり、価値の低い必要の無い魂などあり得るべくも無いのです。

偏差値教育の怖さは、その偏差値という一面的な価値観の押し付けによって、その範疇から漏れた子供達の個性や人格をも歪めてしまうことにあります。


百人の子供達には、本来、百通りの違った魂の在り方や、接し方が有るはずなのです。










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