信長ゆかりの地の切利支丹たち 前編

美濃の岐阜市より40km程東へ行ったところに御嵩町という町があります。

ここは江戸時代は中山道が通っていた所で御嵩宿という宿場町がありました。

そこから更に中山道の街道沿いに山の方へやや北東の方角、6km進むと、謡坂(うとうざか)という地区があります。

ここは本当にのどかな、里山という雰囲気が残っており、この地に立つとまるで時が止まったように感じられるところです。

昭和五十六年三月、この地区で道路拡張工事があり、七御前という近寄ると祟りがあると言われ、通常人が近づかない場所で、仏教の墓石である五輪塔が多数あった場所を移築したところ、その土中から多数の十字を彫った自然石などの遺物が出てきたことから、この地が仏教の墓地を利用した、隠れ切利支丹の里であったことが判明しました。


その後の発掘調査で、謡坂村、小原村、西洞(さいと)村一帯で切利支丹遺物が多数発見されました。

それまでこの地域には、切利支丹がいたことは全く知られていませんでしたので、非常に大きな話題となりました。

中山道、謡坂の石畳。

この地名の由来は、中山道を旅する人々が、あまりにも急な坂道なため、苦し紛れに歌を歌っていたことから、うたうさか、が次第に訛って、うとうざかになったと伝えられています。

道の上を覆う木々や草花などが、今も当時の風情を色濃く残しています。


中編へ続く




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