霊媒体質の人々 其の十二 教祖が陥る闇

自分が生まれた土地の、己が魂の拠り所である産土(うぶすな)神社へは、今も定期的にお参りに行かせて頂いております。


そして今の自分が、今回の人生を通して此処に在るのは、数えきれない程の沢山のご先祖様方が血脈を繋いで来られたお陰であるし、今世の自分がいろいろな経験を出来たのは、生まれてから今日に至るまで係わってきた文字どおりすべての霊的な存在のお陰でもあります。


ご先祖様方に感謝をするということは、取りも直さず自分にとって霊的な血統が脈々と何世代にも受け継がれてきたということに他なりません。


しかしそれはあくまでも霊的な血統の話であって、魂の素養まで受け継いだということでは決してありません。



我々が住むこの世界にはおよそ八十億人の人々が暮らして居るそうですが、ということは八十億の魂が存在するということになります。


しかしその実は魂自体は全てが同じなのであり、日本的な言い方をすればすべての魂は神様の分け御魂であるということになります。


それはたとえヒマラヤの覚者と言われている存在であろうが、何でこんな人が現世に転生したのかと思えるような人であろうが、魂は魂であって魂には優劣、貴賤というものはそもそも無いのです。



しかし別の側面では魂というものはそれぞれが癖、性分、素養、そのステージが皆違って居り、それはたとえ他人や親子、孫の関係であっても決して変わることはありません。



さて、今回の本題に戻ります。


上でお話した通り、たとえ親子であろうとも、魂自体の素養を決して受け継ぐ訳でもなく人格というものは人其々であるので、身内や親戚血縁者に跡目を継がせるということは、そもそも宗教という存在自体の本質的な部分を継承していく為にはそぐわない行為であり、その教団というものを大袈裟でなく堕落させて形骸化させてしまうことに繋がるのです。




京都に創業四百年の老舗の有名な蕎麦屋があり、気の遠くなるような長い年月を懸けてその味を研鑽してきたのでしょう、本当に美味しいと評判で海外にも知れ渡っています。


しかしこの日本という国には、このお店を更に上回る古い老舗と言われるお店や企業がまだ他にも有り、そういった老舗と言われているお店を血統として代々受け継ぐということと、教団というものを魂で繋げて行くことは、 ある側面では全く真逆の意味合いをもっています。


世間の霊能者といわれる人達にも言えることでごく当たり前の話なのですけれども、宗教というものは本来は営利目的の商売などではないにもかかわらず、それをお金儲けの手段としてしか考えていない勘違いをしているいる人間があまりにも多すぎます。


たとえどんな大きな宗教の指導者でもその闇に嵌まってしまっているいる人を知っていますが、これは人間が持つ性という他ありません。



続く              





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