霊媒体質の人々 其の十一 宗教の本質とは

新興宗教というものには往々にして、教祖やその身内、親族達のオーナークラブ的な要素がどうしても滲み出て来ることがあります。


それは内輪である限られた組織のなかであれば、どうしても個人に権限が集中してしまいがちになるからです。


しかしおよそ宗教、教団というものはそれに帰属する全ての人々の意識の集合体であるので、本来であればその中で霊的に意識の高い魂の人がその総体の霊的指導者であるべきなのです。


自分は、今迄いろいろな宗教団体、その信者さんや指導的立場の人々を見てきましたが、個別に評したりその真贋までも実はぶっちゃけてしまいたい教団もなかにはあるのですが、流石にそれは支障がありますのでここでは敢えて伏せておきます。


これからお話することは、某教団の熱烈な信者さんに誘われて、その教会へ行った時の実体験についての話です。


そこの教団では集会場へ案内されてビデオも見ましたし、教祖という人の書いた本もどういう教団なのかを知るために購入もさせてもらいました。


その教祖は、ある程度霊的な素養はあった様で、病気直しを売りにして多数の信者を集めて大きくなっていったという教団のようでした。


ビデオの中では、開祖である教祖は既に亡くなっており、その息子が二代目、若い二十代位の孫が三代目、その青年夫婦の小さな子供が四代目という様に、其々が様付けで呼ばれていました。


しかし自分には、それがまるで江戸徳川の将軍家のお世継ぎの様に感じられ、見ていて物凄い違和感を覚えましたが、自分をそこへ連れて行った人や自分の周りの大勢の信者さん達はその事について誰一人として疑問に思っている様子もなく、それがかえって自分にはとても不思議な光景に見えました。


しかもその後を継いだ教祖という人は、本当にごく普通の人の良いおじさんといった感じで、特に弁が立つとかカリスマ性があるといったオーラもある訳でもなく、同じ町内にでもいそうなおじさんであると言ってもよいくらいの風体の人でした。


残念ながらこういった話は自分が見知っている他の新興宗教においても間々有り、教祖が存命中に自分の子供を我が子であるが故に次の教祖に据えたり、その内部の様子を感じ取れば、子供同士で跡目を巡っていさかいをしているなど、何だかまるで遺産争いでもしているかの様で、これはとても次元の低い価値観にとらわれた、非常に愚かな行為であるとしか言いようがありません。


遺産相続争いというものは、親が残した遺産が多ければ多いほど揉めるというのが世間ではよくある話なのですが、そもそも遺産が無ければ全く揉めよう筈もありません。


宗教というものの四次元的な側面である本来の意義からすれば、何故遺産や利権のような宗教的理念とは全く対極に在る筈の価値観が介在し継承されなければいけないのでしょうか?


宗教の教団というのは、そのうつわやかたちという物理的な概念を継承するということではなく、その真理や霊的な価値観、摂理を人の魂によって継承し繋いでいくのが本来の宗教というものの存在意義である筈なのです。



続く


























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