霊媒体質の人々 其の十三 人生で出会った霊能者達

自分は長い人生の中で出会った、本当にいろいろな霊媒体質の人々を見てきました。


一番多かったのはやはり何となく感じるという人で、その多くは意識を集中するとビジョンが浮かんでくるという感じでした。


またこのブログでも既に書いたように明らかに霊が見えたり強く感じるという人、フーチ等の道具を使う人、これはダウジングといわれる振り子のことで、単純な質問を重ねることにより答えを探っていくというやり方です。


フーチの人はご本人は霊能者だと言っていましたが、これ位は自分でも普通に出来る感じで何だか物足りないなと思いました。


そして人や物が出しているエネルギー(おそらくオーラとは違う)が見えるという人、その人はお店によく来ていた地元の工業高校の男子生徒で、殊更その特殊な能力を人に言いたがるような感じではありませんでしたが、何かの時にたまたまそういった話になり、本屋等へ行くとそれぞれの本が出しているエネルギーがみんな違い、良い本は何となく分かると彼は言っていました。


ものにはエネルギーが出ているということはいろんな方が話しており、その世界では常識だと思うのですが(物理的な知識でも説明出来るのではないでしょうか?自分には理系のことは分かりませんが)、自分でも天然石とかは掌をかざすとビリビリとした感覚がよくわかり、結構手のひらで感じることが出来ます。



自分の人生において、いわゆる霊能者といわれる人に相談料を支払って見てもらった経験は確か三回程あります、そのうち二回は知り合いにたまたまついていって成り行きで見てもらったもので、この人達はこれでお金を取るんだというのが正直な感想でした。


後の一回は自分が未だ若輩だった頃のことで、その時期あることにとても悩んでいて人伝に地元で有名な霊能者といわれる人を紹介してもらい、その人の家を尋ねたというものです。


そこではいろいろと言われて結構きつい話もされましたが、まあ正直言ってしまうと、後から冷静になって思ったことは、その後の人生にはあまり関係が無かったという意味で別に相談しなくてもよかったのかなと感じました。


まあこれは結果論ですが。



その霊能者のところには、相当年月が経ってから(おそらく二十年以上)実はもう一度いっております。


何故行ったのかというと、別に何かの相談のために行ったという訳ではなく、そのときの自分であればその先生のことが以前と違って冷静にみられると思い会ってみたくなったからでした。


特に相談があった訳でもないので何を話したのかはあまりよく覚えていません、ただ印象に残っているのは祭壇があった部屋がとても暗く、祭壇も何だか暗い感じがして先生の話し方も相変わらず口調がきつく、おそらく祀ってあるのは竜神さんなのではないかと感じましたが、だから先生の口調がきつかったのかと納得致しました。


この先生は相談料はいくらと言うわけではなく、あくまでもお布施というかたちを取っていたので、その点では良心的と言えるのかもしれません。


ただひとつだけ面白かったのは、時間がたつと部屋においてあった電話が突然鳴り、どうやらそれは他の部屋から身内が電話を掛けてきている様で、早く話を済ませて帰れという合図らしく(二回ともそうでした)内心思わず笑ってしまいました。



世間では多くの人々は、その長い人生のなかで大なり小なりの悩みを抱えて生きています。


例えばそれが専門的な知識を要する問題であれば、然るべき所へ行き判断材料とすれば良いことでしょう。


しかし人の悩みというものは、実はその人自身が自ら作り出している場合が往々にしてあり、そのことを自分がどの様に感じて思い、それを踏まえてどの様に己の生き様に体現していくかということに人生の意味があるのです。



続く


















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