霊媒体質の人々 其の十四 魂が人生で生きるということ

例の龍神の先生のところに相談に行ったのは、当時、未だ年齢も二十代で人生経験も大して積んでおらず、未熟な部分があったからなのでしょう。


当時は自分にとってその問題は、人生の岐路のこれからを左右するような大きな問題のように思えて、自分ではどうしても解決できない、判断出来ないと思ったからでした。


しかしその渦中に居たときには、人生にとって物凄く重大な問題だったと思っていたことも、今になって冷静に考えてみると全く違った様相に思えるのです。


結局はどちらの道に行っても大して変わらなかったような気がします。


人生、もしもあのときこうだったらどうなっていたのだろうかと思うことは誰しも有るのかもしれません。


若いうちであれば、がむしゃらに生きていけば何とかなるのかもしれませんが、自分の様にある程度人生経験を重ねてきた人は、果たしてどちらを選ぶかという岐路に立ったことは一度ならず何度かあったことでしょう。


しかしよくよく考えてみると、人生というものはたとえどの様な道を選ぼうと、今世に生まれた魂にとっては肉体をお借りして人生というものを経験するということ自体が大切なことなのです。


実は人生を体現するというそのことに、幸不幸、良いも悪いも無かったのです。


人というものは本当に様々な悩みを抱えて生きています。


仕事や職場の悩み、対人関係の悩み、苛め、夫婦の価値観の相違、浮気、相続争いや会社の倒産、失業などの金銭的な問題、心や身体の病、孤独、自分は誰にも必要とされていないという絶望感、人や社会のなかでうまく生きていけないという不器用な人の精神的圧迫、等々いちいち並べたらきりがありません。


なかには何で自分はこんなに不幸で上手くいかないんだと人生に絶望し、死んでしまいたいと思う魂もあるのかもしれません。


苦労や悩みというものや、更にもっと大きな人生の試練、例えば人に騙されて莫大な借金を背負った、事故に遭って不随となった、突然癌の宣告を受けた等ということは、普通から言えば本人にとっては耐え難い絶望間に苛まれることだと思うのです。


しかしこういったことでさえ、我々の上から見ればそれは不運でも不幸でもありません。


はたして絶望の淵に落とされてもう死んでしまおうと思うのか、その境遇のなかでも少しでも周りに感謝して少しでも前向きに生きていこうと思えるのか、またたとえ病で死んでしまったとしてもその直前の想いこそが魂にとつては大切なのであり、人として生きてきた意味があるのです。


彼方の世界においては、自分はどんな学びを必要とするのか、どんな試練を受けるのかということを、魂の浄化のために己が前以て決めて転生してくるのです(因果律も作用しますが)。


悩みに対してどう思うのかということこそが実は生きることの本質であり、悩みや試練は魂にとってはまたとない向上のチャンスとなるのです。


もしも大きな試練がやって来たならば、大変かもしれませんが淡々と受け入れましょう、絶対に乗り越えられない試練は与えられません。


たとえどんなに激しい雨でも、止まない雨は無いのです。



続く





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