霊媒体質の人々 其の十五 ある宗教家の顛末 壱

世間では占いやら予言やら、兎に角いろいろと見てもらう事が好きというか、それがまるで趣味であるかのような人がいます。


それからやたらに神社へ行く人、それが例えば観光目的の神社巡りで、その人が穏やかな気持ちでその土地の安寧を願ってお参りをするのであれば何ら問題はありません。


しかしその人が何らかの心の問題を抱えていて、その埋め合わせをするための代償行為として神社へ行くというのはあまり良くありません。


以前の知り合いで、やたらあちこちの神社へ参拝に行く人が居ましたが、やはり何かしら病んでいる様な感じをその人から受けました。


神社というものは本来、五穀豊穣を願い、自然を畏敬して感謝を捧げ、生かせて頂いている事に対しても感謝を捧げる場であって、願事のために現世ご利益を受けるといった我欲を満たすという好都合な場所ではないのです。


昨今の神社の姿は、人集めのために本来の神社としての在り方が形骸化してしまっていると言えるのかもしれません。



会社をやっていた頃、仕事の関係である人と知り合いました。


その人、彼女は兎に角占い事、易断、パワースポット、ご利益があるという神社、霊能者、御神託をする宗教者等々何でも直ぐに飛び付き、何処へでも行って自分のことを観て貰うというような人でした。


少しでも人の口に上がるような人であれば、手相や占い、占星術、オーラ診断から霊能者、予言者に至るまで全く疑いもせずにお金を払って、片っ端からという感じで彼女は観てもらっていましたが、何故そこまで彼女が自分の将来について気にするのか、それに固執しているのかという事が最初のうちは理解出来ませんでした。


しかし彼女の生き様を観じていると、どうやら彼女の過去世でのトラウマがその様にさせているのだということが自分にはわかりました。


そんな彼女がある知り合いから、病気直しや仕事や悩み事の相談でとても評判が良いという宗教家のことを聞きつけてきて、自分にこういった先生がいると教えて貰いました。


話を聞くとその先生はたまたま自分が住んでいる街の人で、場所を聞けば何と自宅から車でほんの数分程度の所にお住まいでした。


占い好きの例の彼女は相変わらず相談事があると言い、自分は特に何も無かったのですが、どの様な人か興味が有った為彼女について行って一緒にお邪魔するという話になりました。



続く











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