特別投稿 キリスト教について考える 再掲

前回投稿したトピックは、途中まで書いたものを誤って投稿してしまいましたので、再掲させて頂きます。


先日、ある方とキリスト教についてお話をさせて頂く機会があり、思うところがありましたので、今回イレギュラーでこのトピックを投稿させて頂きます。



日本以外の世界の多くの人達が信仰していて、歴史的にも重要な位置を占めている宗教に、世界三大宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教があります。


この三つの宗教はその派生した年代順も上記の通りで、一般的な日本人の感覚では意外かもしれませんが、それぞれの宗教の信ずる神は実は同じでヤハウェと言います。


ですからこの三つの宗教の信者はその信じる神は唯一、絶対無二の存在であり全ての万物の創造主でもあるので、我々人間をも神が創造したということになるのです。


彼等にとって神というものは全知全能の絶対的な存在であり、宇宙の全ての摂理の源であり、彼等もその理の中に在るのですから、人間はあくまでも神に造られたという意味においては神の所有物であるということが出来、あまりにも圧倒的で決して逆らうことの出来ない恐ろしい畏敬すべき存在でもあるのです。


その構図からすると絶対的な神がまず在り、その創造物である人間がその下に位置すると言うことになります。


それに対して我々日本人は八百万の神というと言葉がある通り、この世界を創造した絶対的な神もいれば天照大御神という太陽神、地球意思という神、日本という国生みをした神、我々人間の周りの全ての自然を司る神、豊穣を司る神、日本中に数多ある無数と言える神社が派生した元となる自然霊、霊人、眷属神等々あらゆる存在を我々は縄文の世から受け入れて来ました。


ですから我々日本人にとっての神という存在は、決して上下関係ではなく、日本人の魂があくまでもその中心であり、その周りに無数にあらゆる神々がつながっているという構図になるのです。


この日本人の神との対峙の仕方は世界から見ると極めて特殊であると言えます。


ですから自分の様な霊的な摂理を受け入れた様な魂でも、周りのあらゆる存在に対して神の発露を見て取ることが出来るのです。


しかも自分は過去世においてカソリックの信者でもあったという人生を体現していますので、キリスト教の三位一体である神の子イエスやマリア様に対しても、日本人でありながら非常にシンパシーを感じ取ることが出来るのです。


自分にとっては自然を含めた周りの多くの存在に神の摂理が働いており、魂の拠り所でさえもその範疇にあるといえるのです。


そして日本の神道と仏教、キリスト教はそれぞれが高次元の霊的な摂理であるのは間違いないところですが、役割がそれぞれ違っており、神道は自然や豊穣を司り、仏教は慈悲や生きる道を教え、キリスト教は愛というものは何かということを教えています。


そういった意味では我々日本人は、その全てを学ぶ事が出来るという機会が与えられた稀有な民族であると言え、本当に日本人に生まれたということは極めて幸運なことだと自分は思うのです。


それ故日本人が無神論者であると言うのは実は大きな間違いで、たとえ一神論者でなくても日本人こそが世界の人々の中でも一番霊的な生活を送っていると言えるし、世界がこれから先の混沌とした時代に入っていく上で、我々日本人こそが世界のなかで重要な役割を担っていくのではないでしょうか?



ここからは自分の想念の話になりますが、少し聞いて下さい。


アメリカ軍の軍人を養成する士官学校の講義のあるチャプターに宇宙人に関する記述があり、それにはこう書かれています。


我々人類より遥かに高度な科学技術を持った高次元の宇宙存在がいるのは事実であり、残念ながら認めざるを得ない。


しかしこの事は門外非出事項で、一般人にはそのようなものは絶対に居ないと言わなければならない。


自分は昨年末の「宇宙由来の魂について考える」というトピックでそれについてはよく分からないと吐露しましたが、そのトピックに出てきたSさんという人と出会ってから、確かに宇宙人は絶対に居るという確信に至りました。


そこで想うのですが、世界三大宗教の唯一神であるヤハウェという存在は、実は人類が未だ創世記の時代に関わった宇宙人ではないかという気がするのです。


自分はダーウィンの進化論は全く信じてはいないし、宇宙がもし多次元構造であるのなら、人類の叡知をはるかに越えた宇宙存在は我々がおもっているよりもはるかに居るのではないかと思うのです。


ですから霊的な摂理の源である宇宙の根元的な存在は、当然の事ながらヤハウェ(宇宙人)ではないと自分は想うのです。


何故なら宇宙人でさえも、多次元宇宙のなかに内包されており、その構成の一部であるからです。


これは自分の想念の話であり、特定の宗教を貶めるつもりは全くありませんのでどうかご容赦ください。


キリストの愛について次回書こうと思っていましたが、イレギュラーな特別投稿の為またの機会にさせて頂きます。








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