医療と薬(ワ○○ン)身体の相関関係 食について考える Ⅵ

自分が今現在住んている地域は市街地の外側の住宅もまばらな郊外にあり、専業農家と思しき田畑が周りに点在しています。


そしてとても残念なことに、そういう人達(特に畑の作付け農家)に限って思いっきり除草剤を撒くのです。


自分の身内はそれに対して過敏に反応してしまいますので、家の中で顔が痒くなってくると近くの何処かで誰かが除草剤を撒いたということがすぐに分かるそうです。


雑草というものはそもそも非常に生命力が強く、春先からは何度刈ってもすぐに生えてきますが、除草剤を撒けばあっという間に草を枯らしてそのあとはなかなか生えてこなくなるので、撒く人達にとってみればおそらくは手間を考えて安易に撒いているのでしょう。


しかしあの生命力の強い雑草が数日の内にみるみる茶色く枯れて死に絶えるということは、如何に除草剤の毒性が強いかということを物語っています。


自分は除草剤を撒いている人を見る度に(家の地域では殆どの場合男性のお年寄り)、確実にその方が噴霧された毒液を吸い込んでいる事を思うと、本当に心配になってきます。


除草剤にはパラコート、シマジン、グリホサート、ネオニコチノイドなどいろいろな種類があり、そのどれもがそもそも植物だけに効いて動物には影響しないなどということは断じてありません。


それらの除草剤については微量であれば人体には影響はないというような言い訳がされておりますけれども、これは不特定多数の人にとって取り敢えずは大丈夫だろうという話であって、ワ〇〇ンを打って突然死んでしまう人が居るように、また身内のようにほんの微量の風に乗って飛んできた薬剤を吸い込んで服反応が出てしまう人がいるという現実からも、人によっては重篤な症状があらわれるというのは紛れもない事実であり、今現在症状が出ていないから大丈夫だとは決して言えるものではありません。


全く花粉症でなかった人が、ある年から突然酷い症状を発症したりするのはよくあることですし、体内に蓄積された薬剤の化学物質がある病気の遺伝子を呼び覚まして突然症状が表れたりするのはどの様な体質の人にとっても将来的に起こり得る事なのです。



しかもまずいことに一部の農薬については、EUでは禁止されているものであっても日本では認可されていたりします。


これも食品添加物の認可の場合と同じケースですが、日本は一応先進国と対外的に言われているにもかかわらず、何故こんなに緩い基準がまかり通っているのでしょうか?


これらの事を長年政府として決めてきたのは某巨大政党ですが、何かの存在に対して忖度しているとしか自分には思えません。(自分には某国の存在がどうしても頭から離れません(笑) )


昨年にも食品の遺伝子組み換え表示やその他の基準を曖昧な表記にして、一般の消費者が見てもハッキリと判断できない様に変えましたが、これについてもそれに係わる企業を利するように変更したととられても仕方がありません。


ハッキリ言ってしまえばこれらのモノは動物植物にかかわらずすべての生き物にとって害悪であるだけではなく、環境をも著しく汚染します。


家の近所の畑では、その周りにぐるりと除草剤を撒いており、土の色も薄い乾いたベージュで、しかも全く草が生えていない農地がありますが、これは土自体も痩せていて、肉眼では見えない土中の部分は何の栄養もない枯れた土地である事を意味します。(なかには端境期に違う植物を植えている農家もありますが、農薬や化学肥料を使っている時点で付け焼き刃でしかないと思います)


本来の自然な姿であれば、土中には夥しい数の微生物達が生息し、ミミズなどの虫やその他の昆虫達、鳥や木や農作物以外の植物達でさえもその土地と共に共存しているはずなのです。


それを人間のエゴで、効率的に沢山儲けたいという都合で除草剤や農薬、化学肥料をたっぷり撒けば、F1種で作られた一見立派な野菜は出来ますが、それらのものを撒いた土地自体がそもそも死んでしまっているので大地の滋養を一杯に取り込んだ野菜が出来るはずはありません。


それらの野菜は遺伝子操作と化学肥料や農薬で作られたまるで人工物のようなモノであって、大自然から頂いた天然の恵みの産物とは到底言える代物ではありません。


自然農を実践している人達はこのように言います、大地から頂いた恵みである野菜は半分は虫や動物にあげれば良い、皆で分けて残りを人間が頂けば良い、と。


我々が住んでいるこの地球という惑星は地球意識という一種のエネルギー体であり、その地球を構成しているすべてのものは神の采配で絶妙にバランスが取れ成り立っていると言っても過言ではないほどに、まさに奇跡的というしかない存在なのですが、広大な宇宙のなかでのこの地球という星は本当の意味で文字通り奇跡の星なのです。


しかし産業革命以降、物質至上主義という名の如何にも三次元的な低い波動の価値観にとらわれた我々人類は、科学でもって地球という自然をも征服できるとでも思っているのでしょうか?


このまま地球意識に対して我々が我欲、物欲の底次元意識で関わりを続け利用しようとすれば、過去の太古の例の様に必ずや粛清という名の代償を払うことになるでしょう。


これ以上書くと一般の読者の方には荒唐無稽の話になってしまいますし、本来の主旨からも外れてしまいますので、取り敢えず此処までに留めておきます。


続く






コメント

このブログの人気の投稿

わが町の隠れ吉利支丹にまつわる話 その八

わが町の隠れ切利支丹にまつわる話 その十