特別寄稿 学歴偏重社会について考える 後編

もう一つ身内のことについてお話をしましょう。


自分の父親は、地元の市の郊外にある村の百姓の生まれで、九人兄弟の末っ子、これは別に特別子沢山という訳でも無かったそうで、昔は今と違ってそれ位多産が当たり前だったということです。


大正末年の生まれで、しかもお百姓の家の九人もいる兄弟の末っ子ですから、高等教育を受けさせるというような雰囲気も周りには全くなく、父親は当時の尋常高等小学校を卒業すると直ぐに、街中にあった商店街の老舗の呉服屋に丁稚奉公することになりました。


彼はそこで何年か奉公をしたあと、召集令状が来て中国大陸へ兵隊として渡りましたが、二年程で終戦となり故郷へ復員することとなりました。


日本へ帰っては来たものの、時は戦後の非常に混乱した時代で、然したる資金もなく、そこで父が思いついたのは地元の野菜を買って京都迄列車で運び、京都の闇市でその野菜を売るというもので、食糧難の時代ですから持っていった分だけ飛ぶように売れたそうです。


そのようなことを何度も繰り返すうち、現地の闇市で何かの穀物が入っていた南京袋が山のように積まれていたものに目を付け、野菜を売った代金でその袋を購入します。


おそらく父は丁稚をしていた時に縫製を独学で習得していたのでしょう、彼はその袋を裁断してシャツに仕立て上げ、闇市へ持っていくとあっという間に面白いほど売れたそうです。(別に本職の仕立屋でもないのにシャツの縫製が出来るという事にも驚きますが、父は凄く手先の器用な人でもありました)


それを何度も繰り返してお金を貯めて、次には当時非常に高価であったアイスキャンディの機械を購入し(当時の給料の二年分以上だったそうです)、神社の門前のすぐ横でお店を出しましたがそれもまた当時の甘いものに餓えていた人達に受けて大当たりし、ついには念願の駅前に当時はまだ珍しかった喫茶店を出すことが出来ました。


当時、市内には喫茶店が数えるほどしかなく、この地はモーニング発祥の地として今では全国的に知られていますけれども、父親は近所の繊維問屋の店主やそのお客さん達に向けてトーストや卵、ピーナッツ、おしぼり等を出していたのを若い頃よく覚えています。


喫茶店も当時はまだ珍しかったこともあり非常に儲かったようで(当時は珈琲が非常に贅沢で高価な飲み物でした)、普通であればそれで満足して完結するのでしょうが、彼は当時土地の価格が今と比べて非常に安かったことに目を付け、土地を買ってそこに家を建て今で言うところの分譲住宅のような事業を個人で始めます。


それも軌道に乗りある程度の資産が出来たところで、これ以上は資産を増やしても相続の時の争いの元になるからと、ある日突然キッパリとそのビジネスを止めてしまいました。


その生き様をこうやって書いていると、まるでわらしべ長者のストーリーをなぞっているようです。


自分は物心ついてから、父が亡くなる迄およそ五十年間にわたって身近で父と接して来ましたけれども、彼は本当に頭が良くて物事の判断力もあり、いったい何が今正しいことなのかということを論理的かつ的確に判断出来るような人でした。


親戚の兄弟同士で争いが起こった時や、姉が生活に困窮したときには自ら率先して出ていって助ける様な事をしましたし、兄弟達にも今不動産をやると生活の助けになるからとそのノウハウを惜しみなく伝えて借家を兄達に持たせるような人でした。


父の思い出として、特に自分が今一番印象に残っているのは、七十歳を過ぎてから暫くして手術を要する様な重い腎臓の病気に懸かり、いったいどうすれば良いのかということを極めて冷静に判断してその通りの手術を彼は受けましたが、結果は起こりうる最高のかたちでその病を乗り越えることが出来、結局は九十歳近くになるまでの天寿を全うすることが出来ました。


その時の状況は、一つ判断を間違えればすぐに命を落とす様なとても難しいものでしたが、父は決してうろたえることもなく、沈着冷静に自分の取るべき選択を判断して、だからこのようにするのだと自分に話してくれた事を今でもハッキリと覚えています。


また彼は、大学の建築科出身でもないのに、建物の図面をきれいに製図することも出来ましたし、建築現場で大工達が家を建てている様子を見ているうちに、基礎から一軒まるごと家を建てる技術を習得してしまいました。(もう一度念のために言っておきますが、彼はあくまでも喫茶店のマスターですよ)  


父は昭和から平成にかけての、戦前、戦中、戦後の高度経済成長といった激動の時代を生き抜いてきました、しかし父を身近で見ていて思ったことは、彼の人生にとっては学歴というものは彼の人生に何の関係もありませんでした。


何せ父は小学校卒でありながら非常に頭もよく、物凄く器用でなおかつ彼の人生で正しい選択もし、沢山の徳も積んだ素晴らしい人であったと言えるからです。


その様な父と母の息子として生まれた事を本当に誇りに思っていますし、彼らには今も感謝の念しかありません。



次はいよいよ大切なまとめに入ります。





















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