LGBTについて考える Ⅳ 聖書に於けるポリコレ

このブログで前にお話しました「LGBT理解増進法案」が、審議をしていた部会で反対18名、賛成が10名であったにもかかわらず、自民党内で何故か了承され部会長一任というかたちで一応の決着がつきました。


しかし賛成より反対が上回ったということは、民主主義の原理から言えば否決されて然るべきなのですが、全員一致のルールに反して何故部会長一任というかたちになってしまったのでしょうか。


これはあからさまな自民党内の保守派に対してのガス抜きパーフォーマンスといえる出来レースでして、来るG7広島サミットに向けての、岸田首相のアメリカやその他の西側諸国に忖度した行動であると言わざるを得ません。
(つまり日本だけがLGBT法が無いので、他のメンバーにおもねったか、アメリカの言いなりになってのことでしょう)


このトピックで少しお話をしました通り、日本はLGBTについてはどちらかといえば寛容な文化的背景がありました。


地元の戦国武将である織田信長の側近で、森蘭丸という信長の身の回りのお世話をしていた小姓がおり、彼の名は世間でもつとに有名ですが、身の回りのお世話というもののなかには夜のお相手も含まれており、信長もまた彼のことを非常に寵愛していました。


このような主従関係は特別この二人に限った事でもなく、当時は主君と小姓の間ではよくあることでしたし、この逆パターンは大奥などではよくみられましたので、日本という国は性についてはある程度の寛容性を秘めた社会だったということが出来ると思います。



それに対してキリスト教徒である白人の国家は、LGBTには非常に不寛容な社会でした。


というのは聖書には同性愛を禁止する記述があり、それはつまり当時の時代の社会や文化的な背景が多分に影響していたのではないかと思われます。


聖書が書かれた時代背景を鑑みるに、古代中東や地中海沿岸地域の文化や社会が多分に関係しているのは至極必然なことで、当時の人々の価値観では社会的通念として男女間の結婚というものがあくまでも一般的であり、LGBTのようなかたちでの恋愛は当然の事ながら社会的にも忌避されていたために、聖書においても同性愛というものに対しては否定的な記述として反映されたのでしょう。


また聖書では、絶対神であるヤハウェは土からアダムを創り、アダムのあばら骨からイブ(エバ)という女性を創ります。


それが人類の根源となり、男性と女性はお互いに補完し合う関係性が生まれたことから、聖書における同性愛というものを否定する記述の根拠とされることとなりました。


即ちキリスト教にとっては、LGBTという生き方はヤハウェが最初に与えた男女という根源的な区別、つまり機能的な差異を無視した生き方ということになり、それは神であるヤハウェの意志に背くことになるのです。


ですから聖書では同性愛を明確に否定する記述があるのです。


「 女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。」


この言葉からもわかるように、男女の性別は神が定めたものであるから、それに反してはならないという教えに繋がり、それは即ち同性愛を否定するということになるのです。


そういった原始の宗教的な考えは、生物学的、種の保存の法則から言えば至極本能的なことであり、社会を維持する為という意味では確かに正しいことではあります。


何故なら多くの人が同性愛者であり異性との恋愛を拒否したならば、子孫を残して社会を維持していくことは危ういものとなってしまうからです。


ですから一神教であるキリスト教などの国家では、長い間同性愛に対して不寛容であり、社会的な規範として否定し、そういった人々に弾圧さえもしてきたという時代背景があるのです。


しかしながらそのようなキリスト教国家と、そもそも一神教でもない日本を同列な価値観で同じ様に論ずるということは、文化的な背景から言ってもあまりにも違うためどだい無謀な話なのです。


今や世間では旧来の価値観よりも、グローバリスト達によって個人の自由や権利が優先される時代になってきましたので、LGBTがやたら声高に叫ばれるようになったのですが、彼等の極端な豹変ぶりは、彼等が如何にLGBTの人々に対して不寛容で不誠実であったかという歴史の反動であり、左証でもあるのです。



続く

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