LGBTについて考える Ⅴ ある大学教授の告白

青山学院大学の文学部、英米文学科のエリック.マグレディなる米国人教授が、ある訴訟を起こして話題になっています。


彼の言い分によれば、男性である彼の自己認識はあくまでも男性ではなく「女性」であり、女性の妻との関係は「レズビアン」であると主張していて(??)、日本政府に対して法的にもそれを認めるよう訴訟を起こしているという話なのです。


これは一見何を言っているのかわからない様なややこしい話ですが、要は肉体的には男と女だけれども、レズビアンの関係であるということを法的に認めろという事です。


まあ彼が肉体的な性は男だけれども心は女性だという主張は、特別彼だけが特殊な訳でもなく、世間では時々聞く話で、旦那が突然化粧や女装をしだしたという話は以前にも何度か耳にしたことがあります。


しかしこの大学教授自身が自分は女であると認識していることが、感情の発露であろうがはたまた妄想であろうが、彼が実際にそう思っているのであれば誰もとやかく言うものでもありません。
(今回の記事では出てきていませんが、当事者である彼の妻がそれに対してどう思っているのかということはまた別の話です)


ここで自分がおかしいと思うのは、彼はそのことを公表することによって別に大学の教授の座を追われたなどの不利益を被った訳でもないし、社会的な制裁を受けた訳でも無い、彼が自分の感情に正直になって周りに意思表示をしたのはあくまでも彼の自由意志なのですけれども、何故それを国に対して認めさせなければいけないのかということなのです。


人の魂には、自由意志を以て己の人生を体現するという神をも侵すことが出来ない絶対法則がありますので、彼が何を想い、何を彼の人生で体現しようがそれは彼自身にしか許されないことであり、そのすべてについての責務は彼自身にしか負えないことなのです。


しかし今回の彼の行動は、国に対して過度な権利を主張していることになり、やはり行き過ぎた行為であると自分は言わざるを得ません。


たとえその話(魂の性別)を聞いても、彼に対しては取り立てて何も否定するつもりもありませんし、世間の人がそれで良いと思っているのであれば、それで済むだけの極めて簡単な話なのではないでしょうか。


何故それをわざわざ国に認めさせねばならないのでしょう。


前回、キリスト教国家のLGBTに対する相対的な関わりを聖書から紐解きましたが、これもやはりキリスト教徒であろう彼の典型的な過剰な反応の一例なのではないかと思います。


自分が今回のLGBT法案について本当に危惧しているのは、アメリカやヨーロッパのキリスト教国家で実際に起きている今回の例のようなことが、今後更に日本国内でも起こってきて、社会問題化していくのではないかという懸念が払拭出来ないということなのです。


何度もお話をしている通り、性の多様性を昔から許容してきたのが日本の伝統文化でありますので、今更自民党が法案を通して理解増進をはかる必要性も必然性も日本にはありません。
(これは、決してLGBTの方達の差別や正当な権利、保護について否定している訳ではありません)


今回、岸田さんはサミットの議長国として、「日本という国は歴史的に性差に対しておおらかな文化を形成してきた。だからこの様な法案は我々日本人には必要ない。」
と、堂々と他のG7の国家に高らかに主張すべきなのに、何故自民党政府は白人国家(特にアメリカ)に対して媚びへつらうようなことをしているのでしょうか。


自分には全くその意味がわからないし、政府のやっていることは決して大袈裟ではなく、キリスト教白人国家に対して迎合しているようにしかみえません、日本人としての尊厳を毀損している行為であるとしか思えません。


何度でも言いますが、我々日本人は最近突然言われ出したLGBTなどというものを何百年も前からとっくに許容してきたという文化的な素養が有ったのですから。



続く

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