LGBTについて考える Ⅵ 霊的に想えば見えてくるもの

今回LGBTというものを、このブログらしく霊的な立場で考察してみたいと思います。


我々は今、この三次元の世界で生を受け、其々の人が其々の人生を体現しながら生きています。


そしてそのことを満たすためには、たとえ誰であろうとも肉体がなければ不可能であり、叶うことはありません。


さて、このブログの読者の方々は既にご存知の通り、自分が何度も書いているフレーズを今回もお伝えしなければなりません。


人というものの本質は霊主体従の存在であり、人は(肉体をもって)この世界で生きていますけれども、実は人の本質というものは肉体の内面にある魂こそが本当の姿なのです。


自分は何度もそうやって人生の転生を繰り返してきました。


そして自分は魂の存在の拠り所である霊的な摂理こそが、今我々が生きている世界を内包し、決定的な影響を与えているのだということを知っています。


しかしながら私は何かの宗教に取り憑かれている訳でもありませんし、皆さんを怪しい思想で洗脳しようと思っている訳でもありません。


人にはそもそも自由意志というものがありますし、それぞれの人が経験し蓄積した信念は千差万別であり、各々全てが違いますので、もし自分の事を胡散臭い奴だと思われる方が居るのであれば、拒否して遠ざけ見なければ良いだけのことなのです。



霊的な摂理のフィルターを通してお話をすると、自分は今男性の肉体を纏って今世を生きています。


しかし自分がもしも死んだとしたなら、当然の事ながら男性としての肉体はその時点で消滅する訳です。


そして魂となってあちらの世界へ還ることとなるのですが、また来世こちらに転生してきた場合、果たして男となって戻ってくるのか、はたまた女性として生まれ変わってくるのかは分かりません。


つまりその魂にはどんなカルマがあり課題があるのかという、魂が経験しなければいけない事柄によって男性として生まれるのか女性として生まれるのかが決まる訳です。


まあ例外もあるのでここではあまり詳しくは話しませんが、本来魂というものには男も女もありませんし、肉体というものを纏って初めて性差というものが生まれてくるのです。


もしもその人が生まれ変わって転生してくる場合、殆どの転生では過去世の記憶は消されていますが、なかには魂の性分として過去世での性の記憶が色濃く残っていることがあり、そういった人達が今の肉体の性と合わない場合が俗に言うLGBTと言われる人達なのです。


自分は、どちらかといえば雑だし性格的にも男性っぽいと思っていますけれども、たった一つだけ、これは絶対過去世で女だった時の癖だと確信できる癖というものがあります。
(その癖はそれまで無意識にやっていましたが、二十年位前にある日突然ストンと心に入ってきまして得心しました、俗に言う腑に落ちると言うやつです)


ですからLGBTなどというものは霊的にみれば有って当たり前のことですし、自分の価値観と違うからとそういった人達を差別する様な輩は、己の傲慢な魂のレベルの愚かさを周りに喧伝しているようなものです。


もう一度言います、魂には本来性差というものはありませんので、肉体がたとえ何であろうが、その人の想いが自分は女性であるとか男性であると言う想いが強いのであるならば、それは本人の意志であり別に人がとやかく言うことでもないのです。


自分に言わせればそれは別に取るに足らない事だし、たとえ肉体と心が違っていたとしても何も悩むことでもありません。


霊的な摂理から言えば、男になったり女になったりの転生を繰り返してきた魂にとっては至極当たり前のことなのです。


続く











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