LGBTについて考える Ⅶ エピローグ LGBTとして生まれた意味

さて、前回はLGBTというものを霊的な意味合いから考察した内容でしたが、他にも書きたい事が沢山たまっていますのでそろそろこのトピックも締めにしたいと思います。


前のブログを補完する話になりますが、人の本質というものは、そもそもこの三次元世界で見たり感じたりするという肉体的な感覚で感知出来るものではなく、その内在する世界、別次元と繋がっている存在こそが本来の人間の姿なのです。


ですから我々が今、この世界を生きていて人生を体現する為に纏っている肉体というものは、分かりやすく例えて言うならば魂が着込んだ気ぐるみの様なもので、この世のすべての人々は今回の人生を全うする時には、その纏っていた気ぐるみを脱ぐ(即ち肉体の死)ということになるわけです。


そこで、肉体としての男女の性差は終わることとなります。


確かに生物学的な種の保存の法則から言えば、男性は男性らしく、女性は女性らしくあってお互いに惹きつけ合い愛しあって子孫を残していくということになるのですが、魂の側からみれば、肉体が滅んだ時点で男性性、女性性としての性差は終わり、どちらでもない本来の姿に戻っていく訳です。


それが証拠に、もしも魂にも性差があるのであれば、男の魂は男としてしか転生しないでしょうし、女の魂は女としてしか転生しないでしょう。


しかし皆さんは、その時々の魂の学びや必然性に応じて、実際には男になったり女になったりの転生を何度も繰り返しています。


簡潔にお話をすると、魂の世界というものは想念の世界でもありますので、なかには三次元での体験で性差が魂に色濃く残っているという人達が居り、そういった人達の中に、転生した人生でまとった肉体とは違った性が表に出てくる場合があるのです。


ですからそういった理屈を理解すれば、自分はLGBTであるという、当事者の方が悩む必要など全く無いということが分かります。


何せ魂には本来男も女も無いし、別にどちらでもいっこうに構わない訳ですからね。


もしもこのブログを御覧の方で、その方のお知り合いにLGBTで悩んでいるという人が居られたのでしたら、是非ともこのブログのトピックを一度読んでみるようお勧めしてみて下さい。


そしてもしその人が読まれたのであれば、何故肉体と想いが違うのかという魂の摂理の仕組みが理解出来て、自分がLGBTであるなどと悩むという事がなくなるのではないでしょうか。


例え肉体の性と魂の想いが一致してようが居まいが、そのことを異常だと悩んだり、またそういう人達のことを異端視したり、ましてや差別するなどということも無く、ただ淡々と全ての人が人としてお互いを受け入れれば良いだけのことなのです。


しかし前のトピックでも例を挙げて書きましたけれども、昨今の風潮で今一度重ねて言わねばならない事があります。


それはLGBTであるということを逆手に取って、過剰な権利をそうでない人達に押し付けるという行為は、やはり看過できません。


これは逆説的に考えれば簡単に分かるような話で、人に強いれば自分もまた強いられるということになり、魂の自由意志の行使という法則から言ってもそれはあくまでも己に帰するものであり、人に強いるものではありません。


LGBTかどうかなどということは実は然程大したことではなく、その魂がどの様にLGBTの人生を体現したのかということの方が、その方が生まれてきた大切な意味であるのです。


(最後に、自分が時々散歩に通っている公園で、ある時自分よりは10cm位は背が高かったでしょうか、見るからにガタイの良いまるでレスラーのような男性が、ピンクのミニスカートを履いてジュースを買っているのを見掛けました。

また、自分の行きつけの輸入食材を販売しているKALDIというお店では、長いスカートを履いた八十歳は越えていようかというお爺さんを何度か見掛けた事があります。

どちらも思わず、オオッと声が出そうになりましたが、その開き直り、潔さには心から敬服の念が湧いてきました。

その男性、もとい女性たちの、周りに一切動じること無く自分の意思を貫き通す様は、パンクでとてもカッコ良かったですよ。

超ミニのムキムキプロレスラーやロングスカートを履いた爺ィ、メチャイケてるではないですか、So Cool!)


このブログ終わります、またの機会に。






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