緊急投稿 新たに始まったワ○○○接種について       後編

さて、薬にかかわる人間の健康ということについて、前回のお話をもう少し深堀りさせて頂きます。


人が本来持っている肉体的な(健康)状態というものは、その人に固有に備わっている特質に加えて遺伝的な要素も重要なファクターとなっています。


前回お話をしましたが、健康な状態を維持するためには肉体やそれらを形成している細胞を形造ることになる食事、ストレスを溜めないという精神状態を保つこと、外的に影響されないという身の回りの環境が大切であるということをお話させて頂きましたけれども、これに付け加えなければいけないのは酒や煙草等の嗜好品のことです。


自分のことで言わせて頂くなら、酒については自分の父親は全くの下戸でして、自分もしっかりとその遺伝子を受け継いでいますから本来であれば一滴も飲めないというのが自分の体質のはずなのです。


しかし幸か不幸か東京での大学時代に、電車での大学からの通学の帰り道に新宿という酒飲みにとっての日本最大の楽園天国がありましたので、誘惑に駆られてしばしば友人達と途中下車を四年間繰り返した結果、散々鍛えられて日本人の人並みくらいまでには飲めるようになりました。


(今も有るのかは分かりませんが、当時新宿にはションベン横丁という学生の懐具合に極めてやさしい飲み屋街がありまして、牛乳瓶のようなコップになみなみついだ爆弾酒のような安い焼酎をあおってあっと言う間に酔いつぶれた経験は、遠い青春時代の懐かしい思い出として記憶に鮮明に残っています。)


しかし日本人というのは世界的に見ても本来アルコール耐性が非常に弱い民族で、欧米人と比べると全くと言って良いくらいに飲めない人が多いのですが、例えばドイツなどでは朝からビールを飲んだとしても飲酒で捕まるということはありませんから(ベロベロに酔えば流石に駄目ですよ、一、二本なら彼等は殆ど酔わないので問題にされないということなのです)、まったく同じことをこの日本でやれば下手したら免許取り消し、さらに数十万の罰金を喰らうという結果になってしまいます。


そもそも日本人の民族魂の点から言えば、酒というものはあくまでも本来は神に捧げるものであって嗜好品として嗜むものであり、決して大量に飲むというものではありませんから、健康という観点から言えばあまり飲まないに越したことはないということが分かります。


煙草については、世間ではよく自分のお爺ちゃんはバカスカ吸っていたけれども九十歳まで生きたから害はないというようなことを言ってみえる方がおりますけれども、それはその人の体質的な特性や遺伝的な要素が作用しているのであって健康にとって害はないということでは決して無く、やはり煙草は本来ならば飲まないに越したことはありません。


自分も五十代の半ばまで、一日に五十本以上は吸っていたというかなりのヘビースモーカーでした。


十年以上前の事になりますが、とある平凡な日常生活での午前のひととき、 「これ以上煙草を吸っていると死ぬことになる」 というインスピレーションが突然意識のなかに降りてきて、そのとき以来まったく何の苦痛もなく煙草をあっさり止めることが出来ましたのでそれは不思議といえば不思議な話です。


その体験以前には何度か禁煙を試みることもしましたけれどもその目論見は悉く失敗に終わり、その頃にはもう禁煙しようという気もまったくなくて普通に毎日数十本吸っているというような状態でした。


自分のこの様なある意味霊的ともいえる体験から考察するに、やはり煙草は身体に害はないということは絶対に有り得ません。


何故ならもしも煙草が有害なものでなければ、その様なインスピレーションは決して降りてこなかったと思うからです。


煙草というものは下手な麻薬よりは依存性が強いと言われていますので、何の苦労もなくプッツリと止められた事については自分は守護霊さんや御先祖の霊人達に助けられたのだと今では確信しています。


しかし酒や煙草のどちらも体内に摂取するという意味においては食品のカテゴリーとも言えると思うのですが、酒も煙草も人類の歴史において何千年ものあいだ嗜好品として嗜まれてきましたので、ただ単に健康という側面のみでは語れないという難しさが内包されています。


しかしやはり健康という面からいえば、どちらの嗜好品も過剰に摂取するのではなくあくまでも嗜む程度にしておいた方が良さそうです。



この章を締めるにあたって最後にこのブログらしいお話を少しさせて頂きます。


病気というものは、精神的なものを除けば肉体の不調によって起こってくるものですが、人というのは本来魂がその本質であり、肉体というものはその魂が三次元の世界で学ぶために用意された物理的な着ぐるみのようなものですから、当然のことながら病気にも霊的な作用というものは働いております。


病気には、本人の過去世での行いの因果律によって今世に反作用として現れてくるものがあり、またその魂が、生まれてくる来る来世での魂の学びのために前もって病気という試練を与えるということもあるのですね。


そして実は障がい者といわれる方達のなかにも、その様な場合が往々にしてあるのです。


彼等の魂はそういった意味では非常に崇高な存在であるとも言えるのです。




次回はいよいよ薬についてのお話させて頂きますが、最終章ヘと続きます。





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