父親が体験した霊的な話 その一



自分の父親は大正末年(十四年)生まれで、彼が生まれて直ぐに昭和の御代になり、まさに激動の昭和の時代とともに生きてきた世代でもあります。


父が十代の終わり頃には戦時中の時節、当然の如く赤紙召集令状が届いて先の太平洋戦争で日中戦争さなかの中国大陸へ駆り出され、戦地へ赴いたという経験をしています。


父は恐らく広州から武漢、重慶へ至る中国大陸の真ん中辺りを東の海岸から西の内陸部の方へ行軍していったと思われますが、彼はまだ赴いたのが中国の戦地でしたので本当に幸運でした。


当時の日中戦争で日本軍と敵対していたのは、蒋介石の国民党軍か地方を統治していた軍閥達、若しくは毛沢東の共産党軍だったと考えられます。


しかし行軍の最中に敵軍と対峙して戦闘行為があったということは殆どなかったそうで、当時の兵隊さん達が亡くなられた主な原因は、過激な行軍に加えて栄養失調による免疫力の低下でちょっとした病気に罹ってもまともな医療行為やさしたる薬もなく、バタバタと亡くなっていったという事が真実のようです。


これがもしも南方戦線の戦地であったならば、当時の軍部(特に陸軍)の無策極まりない自殺行為とも言える作戦によってマラリアや栄養失調による餓死などの夥しい戦死者を出していましたので、おそらく自分は父の息子としてこの世に生まれることはなかった確率が高かったことでしょう。


戦争は日本の敗戦でやっと終結し、彼は数ヶ月程で日本に復員することが出来ましたが、自分が今住んでいる一宮という街も、B 29爆撃機による絨毯爆撃によって市街地のほぼ全てが焦土化されてしまいました。


前回のトピックではゴジラ映画について書かせて頂きましたが、その映画もやはり終戦の年から昭和二十ニ年迄の期間が題材となっております。


ネタバレしないように詳しくは書けませんが、映画の主人公が直面した様な現実も実際にはあった事でしょう。


幸いにして父親が赴いたのは比較的戦死者が少なかった部隊でしたけれども、それでも行軍の足手まといになるからと病気で見捨てられた戦友達も少なからず居たようです。


本当に人間というものは愚かなものです。



彼は故郷に戻ったのち、戦後は闇市の時代を経ていろいろな商売を経験し、無一文の状態からまるでわらしべ長者の様な人生を歩むこととなります。


続く

コメント

このブログの人気の投稿

わが町の隠れ吉利支丹にまつわる話 その八

わが町の隠れ切利支丹にまつわる話 その十