父親が体験した霊的な話 そのニ



日本の主だった都市部はB29による爆撃でその殆どがやられてしまいましたが、そもそも一宮には軍事施設などというものは無く、その多くの都市に対する爆撃は明らかに民間人を狙ったものでした。


広島や長崎の原爆投下、東京大空襲などは一度に数十万人もの非戦闘員が亡くなられましたので、これはあきらかな国際法違反であり、本来であればアメリカの行為は重大な責を負うべきものなのですが、勝てば官軍の言葉の通り、何らそのことについては言及されることもなく、その逆で東京裁判やGHQの政策により日本は未だに自虐史観を植え付けられています。


父同様、戦後都市部に住んでみえた多くの人達は本当に何も無いような状態から人生をスタートしなければなりませんでした。


まず人として生きていくために最低限必要なのは何と言っても食料ですが、当時、政府の配給は有ったもののそれだけでは全く足りず、当時の法曹関係者が闇ルートの食べ物は違法行為になるという理由で拒否した結果、彼は餓死してしまうという事件も起こった程でした。


幸いなことに父は地元の村の農家の九人兄妹の末っ子で、実家も小作人ではなくある程度の田畑はあったそうですから、彼は村で作った野菜を列車に乗って京都まで運び、そちらの闇市で売りさばくということを思いつきましたが、当時の状況から当然の如く闇市へ持って行った野菜は端から飛ぶ様に売れていったそうです。


それを何度も繰り返すうちに、ふと市場で渦高く積まれた南京袋が有ることに彼は気が付きました。


おそらくそれは何かの食料を詰めていた袋だったと思うのですが(ここからが彼の凄いところです)、父は野菜を売ったそのお金でその袋を全て買い占め、家まで持って帰るとその生地でシャツを仕立て始めました。


彼は多くの兄妹の末っ子という立場であったので、学歴は尋常高等小学校しか出ておらず、卒業するとすぐに地元の老舗の呉服店に丁稚奉公して、兵隊に行くまでの数年間のあいだに服の仕立ての仕方を見よう見真似で覚えていたのです。


自分で言うのもなんですが、父はお百姓の九男坊の生まれで小学校しか出ていませんけれども、物凄く頭の切れる人で、柔軟性や実用的な地頭の良さでは昨今の東大卒の秀才よりもよほど賢かったのかもしれません。


しかもひらめきというか人とは違ったアイデアもあり、さらに何でもこなせるとても器用な人でした。


京都まで野菜を運んでは売ったお金で生地を仕入れてシャツを作り、それをまた市へ持っていくと、当時は物資が殆ど足りて無い様な時代でしたので、あっという間にそのシャツもさばけるという事を何度か繰り返すうちに、彼の手元には相当な金額のお金が貯まることとなりました。


そこで次に彼が考えたのは、一宮というところは真清田神社という尾張地区随一のお宮さんを中心にして発展していった街なのですけれども(市の名前の由来もそこから来ています)、その門前町の鳥居のすぐ横でアイスキャンディを売るというアイデアでした。


これも当時の人にとっては甘い菓子などというものが殆ど無かった時代でしたので、またしても飛ぶ様に売れたそうです。


父曰く、アイスキャンディを作る機械は目玉が飛び出るほど高かったそうで(聞いた金額はハッキリとは覚えていませんが、当時の貨幣価値で考えると相当な金額だったととても驚いた記憶があります)、凡人であればその価格を訊いただけでもう尻込みするところでしょう、しかし彼はとても商才があった人なので、必ず成功するという閃きというか彼なりの勝算があったのでしょう。


その商売を始めてからたった数年で製造する機械の代金を償却し、アイスキャンディ売りでも相当な利益を上げることが出来たそうです。


しかし、当時一緒に事業をやっていた人とは、何らかの事情からその権利を彼に全て譲って、次に父が考えついたのは一宮の駅前の一等地で商売をするという事でした。



わらしべ長者のようなこの話はまだ続きます。









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