父親が体験した霊的な話 その三

今朝の朝焼け


この一宮というところは、当時は地場産業が毛織物の産地として全国的にとても有名な地域でして、自分が未だ生まれて幾ばくも経たない時分には地元の大手繊維会社が全国にテレビCMを流していたという位に活況を呈していました。


当時そのCMに出ていたタレントは三遊亭小金馬と一龍斎貞鳳という人で、江戸屋猫八も加えてNHKで始まった「お笑い三人組」というゴールデンタイムに放送された全国的にとても人気のあった公開生番組に出演していた人達でしたが、今で言えばタモリやさんま、志村けん位に匹敵するような日本中で誰もが知っているような人気芸人でした。


本当に幼い頃に、彼等がテレビでCMに出ていたという微かな記憶が自分にはあり、どういう訳かそのセリフまで未だに覚えています。


今は繊維産業もよりコストの安い海外勢に押されてしまい、非常に苦戦しておりますけれども、ここ何年かは一宮市が主導して喫茶店のモーニングサービスを売りにしてアピールしていまして、市の主催で「いちのみやモーニンググランプリ」というイベントを何年も前から開催もしています。


この尾張地域が、飲み物代金だけで驚く様ないろいろな食べ物やデザートがついてくるというのはTVのバラエティ番組などの影響もあり、今では全国的にも結構有名になってきています。


高校を出てから大学などで初めて東京や大阪へ行った折に、現地の喫茶店に入っても水だけしか出て来なくて、豆やおしぼりが付いて来なかったという事に衝撃を受けたという記憶がありますけれども、それまでは珈琲を頼むとそういったものが付いてくるのが当たり前なのだとずっと思っていましたから、それは自分にとっては至極当然な話なのです。



父が次に思いついたのは駅前で喫茶店をやるというアイデアでした。


今現在は市内だけで何百軒もの喫茶店があり、其々のお店が独自の工夫を凝らしたモーニングサービスを提供していますけれども、当時は市内には喫茶店というもの自体はほんの数軒しか有りませんでした。


父は伝を頼って駅前に住んでいたある人に目星をつけ、彼は自らお店を建てて無償でその人に譲渡し、それに対して家賃を払うというかたちで駅前で喫茶店を始めることが出来ました。


そもそも一宮の駅前地区というところは、戦後、毛織物を扱う個人商店の問屋が多数集積していて、全国からその毛織物の反物を求めてバイヤー達が商談にやって来るということで、その界隈はとても賑わっておりました。


あちこちからバイヤー達がやって来ると、店主はその都度商談の場として喫茶店を利用していましたので、一般客以外にもその様な見込み客を父は当て込んでいたのでしょう。


今では全国的に有名となったモーニングサービスは、朝の商談で朝食を食べていなかったお客さんにトーストや茹で卵を珈琲のサービスで付けたのがそもそもの始まりであったのだろうと思います。


それからその頃の珈琲の値段というのは、当時の物価から考えてもとても高価なある意味ハイカラな飲み物でしたから、喫茶店自体が希少だったこともあり相当な利益を上げることが出来ました。


自分が覚えているのは、東京オリンピックが始まる直前に、当時とてつもなく希少で高価だったカラーテレビをお店に設置したということからも、父が如何にアイデアマンだったのかということが伺い知れます。


ネットで調べたところ、1966年に秋葉原で売られていたカラーテレビの値段が当時の初任給の十倍だったと出ていましたので、オリンピックは更にその二年前のことですから、カラーテレビは今で言うと車が買えるような値段だったということになります。


子供心に、オリンピックの放映中はお店がオリンピックを観る人達で大賑わいだったのをおぼろげながら覚えています。



いよいよわらしべ長者物語は佳境へ入っていきます。


















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