稲荷神社について考える 後編

伏見稲荷大社は清水寺や金閣寺と並んで京都でも一、二を争う人気の名刹ですから、このブログの読者の皆さんの中にも行かれた方は多いのかもしれません。


前回に書きました通り、伏見稲荷は海外のツーリストの人達にもとても人気があり、最近では観光客の割合が半分どころか八割以上が外国の人じゃないかと思えるような日もある様です。


伏見稲荷が何故そんなに海外の人達を惹きつけるのかと言いますと、何と言ってもずらりと並んだ赤い鳥居の壮観さと、お稲荷さんの眷属である狐が彼等にとってとてもエキゾチックに映るのでしょう。


写真に有ります通り、俗に「伏見稲荷の千本鳥居」と言われていますけれども、実際にはあそこは鳥居の数が九百本弱だそうで、非常に沢山あるという比喩として千本鳥居という名がつけられているみたいです。


しかしお山を含めた全体では、鳥居の数は小さなお供え用のものを除いて三千数百本は有るそうで(実際に数えた方が居るそうです)、やはりとてつもない数の鳥居がお山を埋め尽くしており、流石に全国三万社のお稲荷さんの総本山と言われるだけのことはあります。


稲荷神社といえば今では商売の神様という認識が世間には広まっておりますけれども、元を辿ればその文字が表す通り、稲を象徴する農耕の神様を御祭神とする神社であったのです。


その御本体は農業神であり、豊作を願ってお祀りをしたのが始まりと言われています。


また、何故眷属が狐なのかと言いますと、狐は稲を荒す鼠を食べてくれる事から眷属となったと言われております。


昔の日ノ本という国は猫というものがあまり居なかったのか、若しくは猫が鼠を取るというイメージが一般的では無かったみたいですね。


まあしかし狐とは申せ、やはり幽界の存在ですから実際の動物としての狐ではなく、霊的な存在を具現化したものが象徴としての狐という存在になっているのです。(霊界というものは想念の世界ですからね)


それから神社の眷属という存在は簡単に言いますと、その神社の神様にお使えして霊的な修行をしているもの達のことであり、沢山の人達がお詣りをすることによって彼等も霊的に昇華していく訳ですね。(これもやはり想念の世界ですので祈りという想いが大切なのです)


さて、お話を伏見稲荷に戻します。


数多(あまた)ある鳥居は全てご商売をされてみえる企業や会社、お店等の奉納によるものであり、その鳥居の大きさによって20万から160万迄のランク付けがあるようですが、要は商売繁盛の願い事を鳥居に託して稲荷神にお祀りをする訳です。


うちの住んでいる近くでもとても有名な稲荷神社があり、月末には大勢のご商売をされてみえる参拝者でとても賑わっているそうです。(商売祈願で行ったことが無いので分かりません)


確かにお稲荷さんは効果絶大で、願い事はとても訊いてもらえます、 が、ちゃんとお祀りをしたり御礼参りをしないと結構大変ですよ!


要はしっかりと見返りを求められる訳ですよ。


言い換えるならば、疎かにすると自身に返ってくる訳です。


ですから自分は伏見稲荷へ何度も御参りに行っても、個人的な願い事をした事は未だに一度もありません。


あくまでも霊的な価値観が物質的な価値観よりも遥かに大切であるし、霊主体従の言葉の通り、たとえ今三次元の世界に生きていてもこの世を本当に律しているのは人の想いなのですから。


商売祈願で賑わっている神社へ行くと、何か重い気を感じるのは決して気のせいでは無いと思います。



次回は元のトピックへ戻りますよ、おたのしみに。








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