父親が体験した霊的な話 その六

父は喫茶店のビジネスが軌道に乗ると不動産の仕事も並行して始めましたが、そもそも世間の不動産物件というものは、画一的なマンションや分譲団地の建売住宅でもない限り、全く同じ条件のものは殆ど無いと言っても決して過言ではありません。


これはもう人との御縁と同じで、その人が探している物件に巡りあうかどうかというのは、運とタイミングが重ならなければなかなか難しいものがあります。


彼も自分が購入しようとする一つの物件を探すのに、それはもうリサーチを掛けまくって彼方此方の現場を何度か見に行かなければならない訳です。


父親から訊いた話で、土地にまつわる面白いものがありました。


父はある時近隣の市にある物件を見に行き、彼の探している条件にほぼ見合ったものが見つかったそうです。


しかしいろいろと調べていくうちに、そこの土地の旧地名が「○○町大字○○字墓跡」という地名だったことがわかり、流石にそれは後から知られるとマズイだろうということで購入を諦めたそうです。


そのような曰くのある土地は、実は探せば結構全国的にも有りますし、お隣の名古屋でもモロなヤバい地名を自分は知っております。


さて、父が体験した今回のお話をさせて頂きますが、彼が住んでいた市内の自宅からそう遠くないところに、ある物件を見に行った時の事です。


現場へ行くと、土地の大きさもまずまずで家の状態もとても良く、しかもその条件の割には価格が世間の相場より非常に安かったので、これはもう絶対に買うしかないと喜んだそうです。


しかし、家の中へ入って間取りを見ているうちに、何故だか分からないもやもやした不安が湧き上がってきたそうです。


前回の、「その五」のブログでお話をしました通り、彼は、人間というものは一旦死んだら灰になってそれでもうお終いで、後には何も残らないと自分にハッキリと言っていたような人ですが、通常であれば喜び勇んで飛び付くような物件であったにも拘らず、どうしても何か引っ掛かるものが抑えられなかったそうです。


幸いなことに、たまたまその物件の近くに遠い親戚筋の接骨院をやっている親類が居たので、父は挨拶がてらそこの家について何か知らないかということを聞きに行ったそうです。


その親類のNさんという人は、当該物件のすぐご近所だったのでその家の内情をよく知っており、「いやぁ、あそこの家は○ヶ月前に住んでいた人が部屋で首を吊って死んでいるからねぇ」と話したそうです。


霊などというものはいる訳が無いと豪語していた父でしたが、幾ら利益の出そうな条件の良い物件であろうと、流石にその様な話を親戚から訊かされた彼は、自分の勘が的中してしまったことにいささか驚いて購入することを即座に断念したそうです。


世間では、霊などというものは居るわけがないという人達の割合はやはり圧倒的に多数派でして、今でもその様な価値観の人は結構多いと思うのですすが(特に中年以降の男性諸氏)、霊というものを今迄の人生で一度も見たことも感じたこともないような人達にとっては、彼等がそう思うのも宜なるかなとは思います。


ある人達は、それは人間の脳が作り出した幻影であるという話をしている方もみえますけれども、それはあくまでも三次元の世界での制約された形而下的な論理なのです。


しかしながら霊主体従の霊的な摂理から言うならば、人間がこの世に肉体を以て存在している限りにおいて、その本質というものは肉体ではなくあくまでも霊体なのであって、この肉眼で認識できるこの世界を包括するかたちで霊的な摂理が大きくこの世とかかわっているというのが、紛うことなき厳然たる真実なのです。


ですからたとえどんなに否定しようとも、父親が体験した様に彼の本質的な部分の霊体としての波長がたまたま合ってしまえば、自殺した人の想念を感じ取ってしまう訳です。



次回は自分が体験した似たようなお話を踏まえながら、もう暫く霊的なお話をさせて頂こうと思います。












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