障がいのある人達がこの世で生きる意味とは?

(今回のお話は、一般の方達だけでは無く、特に障がいをお持ちの方の親御さんに読んでいただければ幸いです。)


皆さんの記憶にも未だ残っていると思いますが、2016年7月26日未明、神奈川県にある津久井やまゆり園という障がい者施設内で大量殺人事件が起こりました。


その施設の職員であった植松聖(さとし)死刑囚が利用者の方々の部屋を次々と襲い、41名(内19名の方が亡くなる)の利用者を殺傷したという世間を震撼させた事件です。


彼は逮捕されてから、公判や人との面会時などで何故その様な行動を起こすに至ったのかということについて彼なりの理由を残しています。


ここにそれらの言動を記しますが、あまりにも自分勝手で如何に彼の動機が支離滅裂であったのかということが文面からは見て取れますけれども、下記にその一部を羅列しておきます。


「障がい者が人間であれば罪を犯した時、同様に裁かれている筈であり、知的障害を理由に裁かれないという事実は、彼等が人間でないことを証明している。」


「私の目標は、重複障がい者が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。」


「自分が何者であるかもわからず、意思疎通が取れないような障がい者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけであるので、殺害しても良い。
(意思疎通の取れないような障がい者は安楽死させるべきだ)」


「重度障害者を養うには莫大な時間と金が奪われ、「心失者」(意思疎通のとれない障害者のことを彼が名付けた造語)は日本の財政を蝕む巨悪である。」


彼は、おそらくは障がい者施設の職員としての仕事に疲弊してしまったが故に、魔が入り込んで妄想に取り憑かれてしまい、その結果として犯行に及んだのでしょうが、彼は本来であればその様になる前にその職を辞すべきだったのでしょう。


簡単に言うと、彼の魂のレベルではその仕事は向いていなかったと言う事です。


自分が、キリスト教徒の魂の出自であった経験から言わせて頂くと、自分の目の前に現れたその様なハンディを持った人達はキリストの顕現でもあると言えるのですね。


かつて、インドの内乱で疎開を余儀なくされた途上の列車の中で、(皆さんも良くご存知の)マザー・テレサの前に突然現れたイエス・キリストは、「私は渇く」と言われました。


これは、貴女の前に現れたその様な人々は、私の代わりとなって現れたのですよということなのです。


この三次元世界というものは、いろいろなレベルや癖、性分の魂達がごっちゃになってそれぞれの人生を体現しているが故に、そこには学びというものが生まれてくるのです。


確かに今自分が勤めている職場も、利他の気持が強い人でなければこの仕事は向いていないでしょうし、ここだけの話、自分の職場には、この人はきっと菩薩界から転生した魂に違いないというような人もみえますので、自分としては現世でその様な人に出会う事が出来たというのは、仕事冥利に尽きると言うか、ラッキーであるとしか言い様がありません。


自分があの世へ戻れば、その様な人とはあまりにも階層が違いすぎて決して交わることは有り得ませんからね。


現世を生きているが故の妙味と言うべきでしょうか?


障がいをお持ちの方達が生きていくということは、三次元の世界ではどうしても制約があるために、人としてこの世で生きていくうえでの彼等が出来ないことについては助けが必要なのであるという、極めてシンプルで明解なお話なのです。


植松の言動が、如何に支離滅裂で間違っているのかということは、これは実は霊的に考えれば直ぐに分かるような事でして、病気や精神の場合にはその範疇でない場合もありますけれども、知的や身体障がいの方の場合、その多くは事前に魂がそういった人生を意図して生まれて来ている事がとても多いのですね。


何故ならそういったハンディを持って生まれてくることは、彼等の魂にとってより多くの学びとなるからです。(これは、ご本人だけではなく、周りの人達にとっても学びを得るチャンスとなります)


外面上の障がいというものは、あくまでも三次元的な世界での制約上の話なのであって、例えばある人が死んで肉体を一旦離れた魂のレベルでは、たとえ前世がどのような状態であったとしても皆等しく平等で全てが価値のある存在となるのです。(当然ながら、魂の世界では本来の姿に戻るだけですから、そこには制約などというものは最早ありません)


ですから植松の言動は、霊的な目で観れば人の本質とはまったく懸け離れた、全体のほんの一部分しかみていない、とんでもない見当違いなのです。


最近では医学の進歩によって、産まれてくる子供が事前の検査でダウン症であるかどうかが分かるようになっているそうですが、それもダウン症としての人生を体現するためにその魂が産まれてくるのです。


まあ自分は、特例を除いて中絶をするという行為には反対の立場なのですけれども、人には自由意志というものがありますので、ご両親がどうされるかと言うことについてはその方達の自由意志の行使であるとしか言いようがありません。


ただ、もしも産まれることが出来なかった魂には神の祝福がありますから、水子供養をしなければ浮かばれないなどとご心配なさることは決してありません。


真摯に安寧を念ずればそれで良いのですから。



この話は終わります。
















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