このブログについて リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 7月 06, 2022 皆さんはじめまして。このブログは個人的に参政党を応援するブログで、参政党の公式的な党の見解を表すものではありませんのでどうかご了承下さい。内容は参政党にまつわるいろいろな事柄の解説、政治、経済、世界情勢、日本の文化や歴史、社会情勢、特ア、はてはスピリチュアリズムに至るまで幅広く取り上げていこうと思っています。どうぞ宜しくお願い致します。 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ コメント
わが町の隠れ吉利支丹にまつわる話 その八 9月 02, 2022 毎年恒例のお祭りは五日間に及び(現在では少し短縮されたようですが)、百五十万人以上の方達が近隣の市町村からやってみえます。 なかにはわざわざ県外の遠方から来て頂いて居る方もみえて、そうした方々にも楽しんで頂けるように沢山の特価品を毎回お祭り用に用意しておりました。 例の初日の出来事の後に、セール用に書くポップの紙や手提げ袋等販促用品が色々と少なくなっていましたので、必要なものをパッケージの業務用専門店まで買い出しに行くことにしました。 その帰り道、車がちょうど信号で止まりましたので何気無く横を向いたところ、ある教会が真横にあり、手を大きく広げたイエス・キリストの像が視界に飛び込んで来ました。 しかし通常であれば、お祭りで忙しいので急いで店に帰るところなのですが、その目に入った像がどうしても気になり、車を脇道から少し入ったところに停車してそのイエス・キリストの像の所迄歩いて行ってみました。 そこで自分が目にしたのは、像の下にあった石板に長々と彫られたこの地方の四百年以上に渡る切支丹信徒の、弾圧と苦難の殉教史でした。 自分はそれまで、自分が生まれ育ったこの地域にそのような歴史が有ったことなど全く知る由もありませんでした。 そしてそれは、先程迄お店に見えていた霊的な素養があるお客さんが自分に対して霊視したことと、非常に重なる部分がありましたが、ここで一つだけ言っておかねばならないのは、彼女は決してクリスチャンなどではなく、ある神道系の宗教の信者さんでした。 このことは、実はお店のまた別の常連さんで、その宗教団体にご夫婦で入信して居るという方がみえまして、そのご夫婦に先日○○からこういう人が突然みえて、こういうことを言われましたといった経緯を話したところ、そのご夫婦は、その人とはあまり直接話したことは無いけれども、自分が住んでいる町の支部の信者さんの○○さんという人だと思いますよという話から、彼女の素性というものがやっとわかりました。 おそらくというか、彼女は自分のことを○○○○会というその宗教団体にどうしても勧誘したかったのだろうと思います。 切支丹といえば、島原の乱等の歴史的な背景から九州、特に長崎を直ぐに連想する方が多いと思います。 しかし実はこの尾張地区や美濃にも、沢山の切支丹の方達の苦難の歴史があったのです。 続く 続きを読む
わが町の隠れ切利支丹にまつわる話 その十 9月 03, 2022 時代は徳川の世に移り、切支丹にたいする弾圧はますます激しさを増していきます。 この尾張の地でも、三代将軍徳川家光の厳命により、尾張藩は踏み絵、宗門改宗等で厳しい信者の取り締まりに乗りだし、信者五十七名を召しとりました。 我が町でも特に指導的な役割を果たしていた四名、ポール兵右衛門、コスモ道関、レオン庄五郎、シモン久三郎を印伝郷裏、常光一本松塚というところで火炙りの刑に処しました。 さて、皆さんはこのトピックの最初に出てきた、八劔社境内の空圓上人の碑の側面と台座部分に彫られていた文字を覚えておいででしょうか? 左側面には「センテンセ」、裏の台座部分には「クロタセウ」と彫られていましたが、これはポルトガル語かスペイン語の日本語訛で、それぞれ「判決宣告」、「はりつけ、火炙り」を意味しています。 おそらく信者の方が、この地で宣教師的な役割であった四名の事を偲び、人知れず後の世に残すために、ひっそりとわからないように彫ったのでしょう。 今ではこの四名を慰霊するために、市内の常光寺というお寺で水掛け地蔵が供養されています。 その十数年後にも同じく市内で、指導者格の喜多郎とその妻、他十数名の信者が市の南部、大字平という所で斬首の刑に処せられています。 この地域では弾圧による殉教者がその後もあとをたたず、1661年、四代将軍家綱の時代には尾張、美濃合わせて三千名もの切利支丹が弾圧により殉教したと伝えられています(尾張美濃崩れ)。 この殉教者の数からすると、もしも弾圧がなければ如何にこの地が切支丹信仰の聖地となるはずであったかがわかります。 からくも処刑を免れ隠れ切支丹となった彼等は、代々村八分などの差別を受け続け、永らくの間、苦難の信仰の道を歩まねばなりませんでした。 続く 続きを読む
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